年表で見る川中島の戦い
武田方関連年表
上杉方関連年表
1521年(大永元年)
武田関連
- 11月3日
- 甲斐国主 甲斐国主 武田信虎[たけだ・のぶとら]の嫡男として武田信玄(幼名・太郎[たろう])、甲斐の積翠寺要害城[せきすいじ・ようがいじょう]に生まれる。
1523年(大永3年)
武田関連
- 6月10日
- 武田信虎、善光寺に参詣する。
1530年(享禄3年)
上杉関連年表
- 1月21日
- 越後守護 長尾為景[ながお・ためかげ]の末子として上杉謙信(幼名・長尾虎千代[ながお・とらちよ])、春日山城[かすがやまじょう]に生まれる。
1536年(天文5年)
上杉関連年表
- この頃、長尾虎千代(上杉謙信)、春日山城下の林泉寺[りんせんじ]に入門、名僧天室光育[てんしつこういく]禅師の下で禅の修行と文武の道を学びはじめる。
- 12月
- 長尾為景、家督を長子 晴景[はるかげ]に譲る。
1541年(天文10年)
1543年(天文12年)
上杉関連年表
- 8月
- 長尾虎千代(上杉謙信)元服、越後の栃尾城主になる。長尾景虎[ながお・かげとら]と名のる。
1545年(天文14年)
武田関連
- 4月
- 武田軍、高遠城[たかとおじょう]の諏訪頼継[すわ・よりつぐ]を攻める。
- 6月
- 武田軍、竜ヶ崎城[りゅうがさきじょう]・福与城[ふくよじょう]を攻略し、上伊那を掌握。
1550年(天文19年)
武田関連
上杉関連年表
- 2月
- 越後守護 上杉定実[うえすぎ・さだざね]が死去し、越後上杉氏は断絶。
長尾景虎(上杉謙信)のもとに、室町幕府13代将軍足利義輝[あしかが・よしてる]から白傘袋[しろかさぶくろ]・毛氈[もうせん]・鞍覆[くらおおい]の使用を許され、実質的に国主大名となる。
1551年(天文20年)
武田関連
- 5月
- 武田方の真田幸隆が砥石城を攻略。
- 10月
- 武田軍、安曇郡 平瀬城[あずみぐんひらせじょう]を攻略。
1553年(天文22年)
武田関連
上杉関連年表
- 4月9日
- 葛尾城自落。村上義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼る。
村上義清をはじめ、高梨・井上・島津・須田・栗田氏らの求めにより、長尾景虎(上杉謙信)、信濃へ出陣。
第1次川中島の戦い
図解ページへ- 4月22日
- 長尾(上杉)軍、葛尾城を奪回し、更級郡八幡で武田軍を破る。諸氏旧領を回復する。【八幡の戦い】
- 7月25日
- 村上義清、小県郡塩田城[しおだじょう]に入る。 武田晴信(信玄)、甲斐より出陣。佐久郡内山城[うちやまじょう]に入る。
- 8月1日
- 武田晴信(信玄)、小県郡和田城[わだじょう]を攻め落とす。
- 8月5日
- 村上義清、武田晴信(信玄)に塩田城を攻略され、再び長尾景虎(上杉謙信)を頼る。
- 8月
- 長尾(上杉)軍、信濃に出陣し、武田軍と更級郡布施[ふせ]で交戦。【布施の戦い】
- 9月1日
- 長尾(上杉)軍、更級郡八幡[やわた]で武田軍を破る。武田方の荒砥城[あらとじょう]自落。
- 10月
- 小県郡・筑摩郡で攻防を繰り広げた後、甲越両軍とも信濃から兵を引き上げる。
上杉関連年表
- この年、長尾景虎(上杉謙信)、善光寺の仏像・仏具を春日山城下へ移す。
1554年(天文23年)
1555年(弘治元年)
武田関連
- 3月
- 武田軍、木曽制圧に着手。
第2次川中島の戦い
図解ページへ- 7月
- 長尾景虎(上杉謙信)、村上義清・高梨政頼[たかなし・まさより]らの求めにより、善光寺横山城に入る。
- 長尾(上杉)軍、武田軍の旭山城[あさひやまじょう]を攻める。
- 武田晴信(信玄)、更級郡大塚の大堀館[おおぼりやかた]にて長尾(上杉)軍と対陣。
- 旭山城にこもる栗田氏に兵3000、弓800張、鉄砲300挺を送り、支援。
- 7月19日
- 川中島(犀川[さいがわ]付近)で両軍の衝突。小競り合いに終わる。【犀川の戦い】
- 閏10月15日
- 200日におよぶ武田・長尾(上杉)両軍のにらみ合いが続き、今川義元[いまがわ・よしもと]が仲介に入る。
旭山城を破却、両軍とも川中島から撤退し、所領を旧領主に返上するという講和の条件で和睦。
1557年(弘治3年)
武田関連
上杉関連年表
- 1月20日
- 長尾景虎(上杉謙信)、更級郡八幡宮に願文を奉納。
- (日付不詳)
- 長尾(上杉)方・島津月下斎[しまづ・げっかさい]、長沼城[ながぬまじょう]から大倉城[おおくらじょう]へ退却。
- 3月23日
- 飯山城[いいやまじょう]の高梨政頼、長尾景虎(上杉謙信)を頼る。
- 4月18日
- 長尾景虎(上杉謙信)、武田軍の再侵攻により信濃へ出兵。
つづいて長尾(上杉)軍、武田方の高井郡山田城、福島[ふくじま]城を攻略。 - 4月21日
- 長尾景虎(上杉謙信)、善光寺横山城に着陣。旭山城を再興し、本陣を置く。 長沼城の島津月下斎[しまづ・げっかさい]は戸屋城[とやじょう]に入り、小川・鬼無里方面に圧力を加える。
- 5月10日
- 長尾景虎(上杉謙信)、高井郡 小菅山元隆寺[こすげやま・げんりゅうじ]に願文奉納。
- 5月13日
- 長尾景虎(上杉謙信)、上水内郡香坂[こうさか]、小県郡境坂木の岩鼻[いわはな]に進軍。のち飯山城に後退する。
- 長尾景虎(上杉謙信)、高井郡 野沢の湯[のざわのゆ]に市河藤若[いちかわ・とうじゃく/とうわか]を攻める。
第3次川中島の戦い
図解ページへ- 8月
- 武田軍と長尾(上杉)軍、水内郡上野原で交戦。【上野原の戦い】
武田方が善光寺平と戸隠周辺を勢力下とする大勢は変わらぬまま、両軍とも兵をひく。
1561年(永禄4年)
上杉関連年表
- 閏3月
- 長尾景虎(上杉謙信)、関東管領を相続し、上杉政虎[うえすぎ・まさとら]に改名。
第4次川中島の戦い
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武田関連
上杉関連年表
- 8月14日
- 長尾政虎(上杉謙信)、春日山城を発つ。
- 8月16日
- 長尾政虎(上杉謙信)、善光寺横山城から妻女山[さいじょさん、さいじょざん]へ着陣。
- 9月9日
- 長尾政虎(上杉謙信)、「啄木鳥の戦法」を見破り、午後11時頃、妻女山を発つ。雨宮渡[あめみやのわたし]から千曲川左岸へ向かう。
- 9月10日
- 武田信玄本陣を急襲。
1563年(永禄6年)
武田関連
- 4月初旬
- 武田信玄、野尻・越後方面出兵を計り、飯縄山麓に軍用道路を開く。
1564年(永禄7年)
武田関連
- 3月18日
- 武田軍、上杉謙信の留守を狙って越後へ侵入。水内郡の野尻城を攻め落とすが、即座に上杉軍に奪回される。
第5次川中島の戦い
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上杉関連年表
- この年、戸隠奥院(戸隠神社)の衆徒ら、越後軍の侵入を避け、水内郡小川に移住。
1565年(永禄8年)
上杉関連年表
- 2月
- 上杉軍、上野に出陣
- 11月
- 上杉輝虎(謙信)、関東に出陣
1567年(永禄10年)
1568年(永禄11年)
1569年(永禄12年)
武田関連
- 1月11日
- 越後の上杉輝虎(謙信)から甲斐へ送られた塩が松本に到着する。
※塩を送る…『鶴城叢談』『松本郷土訓話集』などのエピソードより - 10月6日
- 三増峠[みませとうげ]の合戦で武田軍が北条軍を破る
1570年(元亀元年)
1573年(元亀4 天正元年)
武田関連
- 4月12日
- 武田信玄、上洛途上の三河陣中、伊那郡 駒場[こまば]で病没。
1575年(天正3年)
武田関連
- 5月
- 武田勝頼、長篠[ながしの]の戦いで織田・徳川連合軍に大敗。
1578年(天正6年)
上杉関連年表
- 3月13日
- 上杉謙信、春日山城で急死。
上杉景勝が景虎に勝利し、家督を継ぐ。
- 6月7日
- 上杉景勝、武田勝頼と和睦。信濃・上野を勝頼に割譲
1582年(天正10年)
武田関連
- 3月2日
- 高遠城落ち、武田信玄の五男、仁科信盛[にしな・のぶもり]戦死。
- 3月11日
- 武田勝頼父子、天目山[てんもくざん]で自刃。武田氏滅ぶ。
上杉関連年表
- 6月
- 上杉景勝、森長可[もり・ながよし]にかわって北信四郡(北信濃の高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡を指す)を掌握。
- 参考文献
-
『甲越信戦録 現代語訳』岡澤由往(龍鳳書房)
『川中嶋古戦場ひとり旅』岡澤由往(龍鳳書房)
『信濃史料』『長野県史』
『長野県町村史』
『長野市誌』
『更級郡史』
『長野県の地名』
『甲陽軍鑑』
『妙法寺記』
『川中島の戦 甲信越戦国史』小林計一郎(銀河書房)
『風林火山』井上靖
『武田信玄100話』坂本徳一編(立風書房)
『武田信玄 戦国の雄・その生涯と史跡をたどる』(信濃毎日新聞社)
『川中島合戦は二つあった』笹本正治(信濃毎日新聞社)
『歴史群像シリーズ6風林火山
信玄の戦いと武田二十四将』(学研)
『歴史群像シリーズ50 戦国合戦大全・上巻』(学研)
『信濃路の風林火山』(信濃毎日新聞社)ほか