川中島の戦い・主要人物
武田信玄(たけだ・しんげん)
- 学問好きの文学青年から戦国大名へ
甲斐源氏の一門・武田家の嫡男で、甲斐国内の統一に成功した武田信虎(たけだ・のぶとら)と大井信達(おおい・のぶたつ)の娘(大井夫人)との間に大永元年(1521)11月誕生した。幼名は太郎または勝千代(かつちよ)といい、元服後は晴信(はるのぶ)、のち出家して信玄と名乗った。
幼年から長禅寺の禅僧・岐秀元伯(ぎしゅう・げんぱく)から禅学や兵法を学び、学問好きの文学青年として成長。そんな信玄に対し、武徳を尊ぶ父信虎は疎んずるようになる。信玄はこのころには機略に富み人の心を掌握する術に長けていたという。
天文10年(1541)には父信虎を駿河の今川義元のもとへ国外追放して家督を得、翌年、諏訪攻略を手はじめに信濃へ侵攻する。諏訪頼重(すわ・よりしげ)、高遠頼継(たかとお・よりつぐ)、小笠原長時(おがさわら・ながとき)、村上義清(むらかみ・よしきよ)といった信濃の豪族との戦いを制し、甲斐と信濃の大部分を領する戦国大名となった。
- 川中島の戦いと信玄
信玄に追われた豪族たちの請願により信濃へと出兵した越後の上杉謙信とは、川中島を合戦場として11年にわたる5度の戦いが繰り広げられた。戦国史上最大の激戦といわれる永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、妻女山に布陣していた上杉謙信に「啄木鳥(きつつき)の戦法」を見破られ、弟の武田典廐信繁(たけだてんきゅうのぶしげ)、山本勘助らを失った。
川中島の戦い以降、北信濃のほとんどを掌握した後、上野、駿河、遠江への侵略を開始し、元亀3年(1572)の三方ケ原の合戦では徳川・織田の連合軍に大勝。上洛作戦を図るがその途上の元亀4年(1573)4月、「3年間は喪を秘し兵を休めるよう」と遺言を残し、伊那郡駒場(こまば)で息を引き取る。享年53歳。信玄亡き後、武田家は、諏訪頼重の息女(由布姫・ゆうひめ)との子・勝頼(かつより)が家督を相続した。
- 戦国最強の武士団を作り上げた人間性
信玄は、和歌や詩、絵画に優れた才をもち、古代中国の兵書『孫子(そんし)』を好んで読んだという。「人は城、人は石垣、人は堀……」とする信玄は家臣を重んじ、その人間性にひかれて山本勘助や真田幸隆といった優秀な人材が集まり、「風林火山」の孫子旗と諏訪法性旗(すわほっしょうき)の下、戦国最強と喧伝される武士団をつくりあげた。
また、善光寺如来を甲府に移し甲斐善光寺を建立し、戸隠神社をはじめ各地の社寺に戦勝祈願状を納めるなど神仏に対する信仰も篤く、ときにはそれを外交戦略に利用する現実的な軍略家でもあった。
内政においては、山本勘助の意見も反映されたと伝わる「甲州法度之次第」(分国法)の制定や税制・度量衡の統一、交通制度の整備、「信玄堤」に代表される治山治水、金山などの鉱山・森林資源の開発など、民政家としての卓越した業績を残している。
奥社
山本勘助晴幸(やまもと・かんすけ・はるゆき)
- 城づくり、兵法に長け、諸国の事情にも通じた名軍師
武田信玄の知恵袋、謀将、城造りの名人、などと称讃される山本勘助。甲州流兵法の祖といわれ、隻眼(せきがん。目が片方しか見えないこと)で手足が不自由ながら築城術と兵法にひいでた名軍師として、武田二十四将の中でも高い人気を誇っている。
『甲越信戦録』では、勘助は三河牛窪(みかわうしくぼ・愛知県豊橋市)の侍で、諸国を歴訪し、戦国大名の事情に精通し、築城法をはじめ、文武百般に通じていたとしている。天文12年(1543)、その才覚を見込んだ板垣信方(いたがき・のぶかた)の推挙により武田晴信(はるのぶ・信玄)に召し抱えられ、足軽隊将となる。
風貌異形の勘助を晴信(信玄)は気にもせず重用したことから、その恩義に報いるため、己のすべてを主君に捧げようと決意。策略家として次々と城を落とし、信濃攻略においてその才能を開花させていった。永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、妻女山(さいじょざん)に籠もる上杉軍に対して啄木鳥(きつつき)の戦法を進言。しかし謙信に裏をかかれ、信玄本陣を窮地に陥らせてしまう。責任を感じた勘助は、信玄を守るため上杉軍に決死の討ち入りを図るが、柿崎景家(かきざき・かげいえ)隊により討ち取られ、泥真木明神(どろまきみょうじん、泥木明神、勘助宮跡)付近において69歳の生涯を閉じたという。
勘助宮跡 - 「月のような一眼」を持った伝説の人物
謀殺した諏訪頼重(すわ・よりしげ)の娘“由布姫(ゆうひめ)”を側室にと、重臣たちを説き伏せたのも勘助であり、信玄は全幅の信頼を置いていた。晴信(信玄)の一字を受けて“山本勘助晴幸(はるゆき)”と称し、信玄が出家したときには同じく出家して“道鬼(どうき)”と名乗った。築城術にも長け、川中島の戦いに備えた海津城をはじめ、由布姫の子勝頼(かつより)が城主となった高遠城、村上義清(むらかみ・よしきよ)攻略・上州進出の足がかりとなる小諸城の縄張りなども勘助によるものとされ、その技術は馬場信春(ばば・のぶはる)に伝えた。「万人の眼は星のようで、勘助の一眼は月のようである」と信玄は評していたという。
勘助の生誕地は静岡県の富士宮あるいは愛知県の豊橋など諸説あり、山梨県(甲斐)、愛知県(三河)、静岡県(駿河)、長野県(信濃)には勘助にまつわる伝承が数多く残されている。討ち死にした川中島古戦場付近には、勘助の墓をはじめ、胴合橋、勘助宮などのゆかりの地が点在している。
海津城
上杉謙信(うえすぎ・けんしん)
- 「軍神」、「越後の虎」…様々な異名を持つ戦の天才
- 神仏への厚い信仰心、義を重んじた謙信
天文22年(1553)武田信玄に追われた村上義清(むらかみ・よしきよ)らの求めに応じ信濃へ出兵した謙信は、武田信玄と川中島で5度にわたり戦った。川中島の合戦を通して生涯の宿敵であった信玄との間には友情めいたものがあったのではないか、という推測もあり、信玄の死を伝え聞いた時には「惜しい男をなくした」と箸を落としたという。 敵国甲斐の領民に塩を送った逸話(※「首塚」の紹介文参照)でも知られるように、義を重んじ、私利私欲では動かなかったという謙信。青年期までは曹洞宗の古刹・林泉寺(りんせんじ・新潟県上越市)で名僧天室光育(てんしつこういく)から禅を学び、後に臨済宗大徳寺にも参禅、晩年には真言宗に傾倒し高野山で位階も受けるほど、神仏への深い信仰心をもっていた。
自らをその化身と仰ぐ毘沙門天(びしゃもんてん)の「毘」の旗織をはためかせ信濃から北陸、関東へと進出するが、天正6年(1578)、天下への夢を果たすべく織田信長挟撃を画して戦を進めているなか、脳溢血(脳いっけつ)で倒れて49年の短い生涯を閉じた。戦国時代を疾風のように駆け抜けた合戦の天才であった。
※毘沙門天 多聞天。仏教の守護神で、北方を守る四天王の一人。七福神の一人ともされ、悪魔を成敗する武装した姿で戦国期には武神とあがめられた。
雨宮の渡し
由布姫(諏訪御料人)(ゆうひめ、すわごりょうにん)
- 父の仇・晴信の妻として生きた、短く薄幸な人生
天文11年(1542)、武田晴信(信玄)による諏訪攻略によって自刃させた諏訪頼重(すわ・よりしげ)の息女。側室小見[おみ]氏(麻績[おみ]城主小見氏の娘・華蔵院[けぞういん])との子といわれ、「目のさめるような美貌」で晴信に見初められて側室となる。天文15年(1546)、後に武田家当主となる四男勝頼を15歳で生む。10年後の弘治元年(1555)、わが子の晴れ姿を見ることなく、薄幸な生涯を閉じた。
晴信の側室として迎えるにあたり、家臣たちは「手にかけた諏訪家の娘、いつ上様の寝首をかかれるやもしれません」とこぞって反対したが、「諏訪への懐柔策となり、武田家にとって必要なことである」という山本勘助の進言によって、天文12年(1543)、晴信との祝言が行われたとされる。
- 文学作品に描かれる由布姫の姿
歴史上、その本名は知られておらず、海音寺潮五郎の『天と地と』では“諏訪御料人(すわごりょうにん)”、新田次郎の『武田信玄』では“湖衣姫(こいひめ)”と名づけられた。井上靖の『風林火山』には、由布姫の名で登場し、敵である晴信を憎む一方で、深く愛する心に揺れる、内に情熱を秘めた女性として描かれている。物語ではそんな美しく怜悧な由布姫に思慕の情を寄せる山本勘助が、勝頼に自らの夢をかけて二人を見守ってゆく。
- 由布姫の故地、小坂観音院と高遠・建福寺
なお、由布姫が暮らしたという諏訪湖岸の龍光山[りゅうこうざん]観音院(小坂[おさか]観音院)には“由布姫の供養塔”が建ち、また伊那市高遠の建福寺[けんぷくじ]には勝頼が母親の菩提を弔ったとされる由布姫の墓がある。法名は「乾福寺殿梅岩妙香大禅定尼」という。