大堀館跡

大堀館跡の碑

弘治元年(1555年)の第2次川中島の戦いで、武田軍と上杉軍が犀川をはさんで長期にわたる対陣をした際、信玄の本陣となったところ。このとき、謙信は善光寺横山城に着陣。大塚館は犀川を隔てて善光寺に対し、東は千曲川対岸に海津城と呼応する場所に位置した。

大堀館[おおぼりやかた]は、信玄、勝頼二代に仕えた町田氏の居館跡といわれ、大塚館ともいう。町田氏は、武田家滅亡後、武士をやめこの地に帰農した。その後、居館は消失、近年まで外郭に堀や土塁をめぐらした中世居館の遺構を目にすることができたが、現在は更北中学となったため、校地内に館跡の碑が建つのみ。館跡隣の安養寺には武田信玄奉納と伝えられる守護仏不動明王が安置されている。

なお、大堀館は、一説には綱島を領した綱島豊後守保品の館ともいわれている。

岡澤先生の史跡解説

弘治元年の対陣(第2次川中島の戦い)を「二百日の対陣」ともいう。『妙法寺記』に「この年(弘治元年)七月二十三日、武田晴信公信州へ御出馬された。去る年、村上殿、高梨殿は越後守護長尾景虎を頼られた故に、景虎も二十三日に御出馬されて、善光寺に御陣を張られた。武田殿は三十里こなたの大塚に御陣を置かれた。(中略)終には駿河の今川義元殿の御扱いで和睦し、十月十五日に互いに退陣された。二百日の対陣であった」と記している。この対陣のとき、梅の小枝にまつわるエピソ−トがある。

旧暦八月朔日(ついたち)を「八朔(はっさく)」、「頼み節句(たのみせっく)」ともいう。「頼み節句」は農作業を依頼することからついた。八朔の日は品物を贈って祝うことが慣行であった。西寺尾村西法寺(さいほうじ)の住職西順(さいじゅん)は武田家の旧臣である。甲越両軍が川中島に侵攻しては殺戮しあうことは、仏弟子西順には忍び難かったが、故郷の将兵に八朔祝いを贈り、ねぎらうことも仏の慈悲と思うが、衰微した寺にはこれといった贈るものはなかった。思い悩みながらふと目に入った小枝に実の取り残してある梅の木。この梅の小枝に、長引く対陣で村里は衰微し、里人たちが塗炭(とたん)の苦しみに喘でいる旨の書状を添えて、大堀館の信玄の許に届けた。西順の書状に心打たれた信玄は、この梅の木を八朔梅(はっさくばい)と名づけたという。これ以後、川中島の戦いは長引くことはなかった。里人は西順の徳を讃え、梅干や梅漬をも八朔といったと伝えている。(西法寺古文書より)

アクセス
長野ICより車約15分