上杉・武田両軍の争奪戦が行われた山城。長野県庁の西にそびえる標高785mの旭山山頂に本城、中腹に大黒城、尾根の突端には小柴見城(こしばみじょう)があった。
天文22年(1553)に川中島に進出した上杉謙信は、武田勢力の北信濃への浸透をくいとめたが、その後、武田信玄が善光寺の堂主・栗田氏を味方に引き入れた。弘治元年(1555)7月、謙信は越後より出陣し、善光寺横山城に着陣。これに対し信玄は犀川(さいがわ)を隔てた大塚館に陣を構え、旭山城の栗田氏に兵3,000、弓800張、鉄炮300挺を送り、謙信の川中島進撃を牽制した。
謙信は旭山城がおちないことには犀川をこえて信玄と決戦することができない。両軍は本格的な戦闘がないまま200日におよび対陣。長引く膠着状態に将兵たちの戦意は薄れ、両軍とも困り果てたところ、今川義元が仲裁にはいりようやく和睦。両軍は川中島から兵をひき、一帯の地は旧領主たちに返すこととなった。
この第2次川中島合戦によって旭山城は上杉方に破壊されたが、弘治3年(1557)に謙信が再興したといわれる。
旭山の中腹には朝日山観世音堂が建ち、昔から合格祈願・商売繁盛の「朝日山(旭山)のお観音様」で親しまれている。
岡澤先生の史跡解説
『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』に「小笠原満経(おがさわら・みつつね)、応永のころ(1394~1428) 、信濃国水内郡栗田に城を構え、旭城と名づける。嘉吉3年(1446)3月、同族信濃守持長(もちなが)・左京大夫宗康(むねやす)兄弟家督を争って合戦に及ぶ。満経は持長を助けて旭城に移し、信濃国漆田原(うるしだはら・現長野市後町あたり)において宗康と戦い、終にこれを滅ぼす」とある。旭山城は大塔(おおとう)合戦のころに築城され、その後、戦国戦乱期には、栗田氏の支城となっていた。
弘治元年の犀川対陣は、今川義元の斡旋で和睦した。この時に旭山城は廃城となったと思われる。これについて、弘治2年6月21日、長尾景虎が長慶寺に遣わした書状案に「信州の儀、かの国はいうまでもなく、村上方をはじめ、井上・須田・島津・栗田、その外、連々申し談じ候。高梨のことは、とりわけ好友があることにより、見捨てることはできない。信州過半を晴信は手に入れ、領地化の体にで候間、両度出陣(天文22年・弘治元年の川中島の戦いのこと)した。去年は、旭の要害に向かい、新地を取立て、敵の城を攻略致して、晴信に対し興亡の一戦を遂げる外、仕方なく候ところ、甲州軍浮沈に及び、晴信は今川義元に頼んで無事の儀さまざまに懇望した。その時に誓詞並びに条目以下、相調えられた上、旭の地ことごとく破却するなど、いろいろと義元ご意見された末、和議をもって馬を収め候。これより信州味方中、今に安泰になられ候」とある(『信濃史料』十二巻)。
- アクセス
- 朝日山観世音堂側の平柴登山口から徒歩約30分