長野市北端、飯綱町牟礼[いいづなまちむれ]との境にある髻山(標高744.4m)に築かれた山城で、越後方面から善光寺平に入る要衝にあたり、川中島の戦いの頃、上杉・武田両軍によって利用された。
上杉謙信による築城とされ、野尻城(信濃町)および飯山城(飯山市)からの進軍ルートを結び、善光寺横山城への中継拠点として、川中島出陣に利用された。第4次川中島の戦いでは、上杉方の宇佐美定行が立てこもって武田勢と戦ったという伝承も残る。
永禄7年(1564)、第5次川中島の戦いでは60日におよぶ塩崎の対陣のあと、上杉謙信は川中島から飯山城へと後退し、武田信玄はこの髻山城に兵をあげて上杉軍の動きを警戒したという。
「髻山」の名は、山の姿が仏様の頭のような髻に似ていることに由来するといわれるが、上杉謙信がここで頭を丸めて髻(髪の毛をまとめて頭の上で束ねたところ)を埋めたことから名づけられたとの言い伝えもある。
岡澤先生の史跡解説
髻山は独立峰をなし、山頂からは、善光寺平を一望することができる。晴れた日には、越後の佐渡が見える。山頂に本城があり、やや下がった平坦部に小城が築かれていた。山頂の本郭跡は、東西45m・南北26m、周囲に高さ1m内外の土塁をめぐらしている。西麓と北麓には、中腹から麓にかけて、土塁つきの竪濠がある。西麓から北麓にかけては、幾重もの空濠と郭が段をなしている。東方と西方に登り口がある。西方を大手という。この山城は、上杉景虎によって築城され、謙信馬返し、宇佐美沢の地名もある。
弘治3年(1557)2月15日、上杉方の葛山城が武田軍の手に落ち、上杉方の島津月下斎は長沼城から大倉城に退却した。この報に接した謙信は、川中島への拠点である髻山城の確保、島津氏援軍のため4月18日に信濃に出陣し、山田城・福島城(須坂市)を奪還した。その後、善光寺に本陣を取り、旭山城を再興し、飯山城に入った。そして武田方の市河藤若[いちかわとうわか、とうじゃく]の野沢城(下高井郡野沢温泉村)を攻めている。このとき、信玄は市河藤若への注進状を“山本菅助”(勘助)に託した。この注進状に「詳しいことは山本菅助が直接口頭で伝達する」と結んでいる。この注進状により、信玄の側近としての“山本菅助”の存在が明らかとなった。8月には、髻山の麓の上野原(長野市若槻上野付近)で武田軍と上杉軍が戦っている。この戦いを「上野[うわの]の戦い」という。
永禄4年(1561)の八幡原激戦後は、武田方の勢力が北信濃を制し、髻山城も信玄によって修築完備された。永禄7年(1564)8月、直江実綱[なおえさねつな] は飯山城に入った謙信に対し、「敵もとどり山へ小旗45本にて、毎日武具致し候」と書状を送っている。このように髻山城は上杉、武田両軍に利用された。
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