第5次川中島の戦い塩崎の対陣上杉謙信、川中島へ最後の出兵も勝敗は決せず
武田信玄、越後への出兵をはかり、野尻城を攻める
- 永禄6年(1563)4月初旬、武田信玄は、野尻·越後方面進出のための軍用道路を飯縄山麓に開かせ、①長沼城を修築して北信濃の上杉方の城を攻めた。
永禄7年(1564)3月18日、武田軍は、上洛した上杉謙信(当時は上杉輝虎と名のる)の留守を狙って越後へ侵入。水内郡の野尻城を攻め落とすが、即座に上杉軍に奪回されるといった攻防が続いていた。
一気に決着をつけようと兵を進めた謙信、塩崎城の信玄と対陣する
- ②武田軍の越後侵攻と西上野での勢力拡大に危機感を募らせた上杉謙信は、再度川中島に出兵し武田信玄を討とうと、7月29日、春日山城から善光寺横山城に進軍し、8月1日、更級郡八幡宮(武水別神社[たけみずわけじんじゃ])に戦勝祈願。③そして8月3日、小田切館周辺、川中島に陣を張った。
- ④一方、武田信玄は、8月下旬更級郡塩崎[さらしなぐん·しおざき]に陣を構えたが動かず,60日近くのにらみ合いの末、上杉謙信は飯山城に兵をひいた。⑤【塩崎の対陣】
武田信玄は、髻山城[もとどりやまじょう]などに兵をあげ、飯山城の上杉軍の動きをうかがっていたが、10月1日、上杉謙信は、飯山城を修築させ、春日山城へと帰っていった。
川中島の戦い後、信濃のほぼ全域を掌握した武田信玄
- その後、上杉謙信は川中島に出兵することなく、12年間5度にわたる“川中島の戦い”は終結した。この戦いによって武田信玄は、上杉方の勢力を飯山城、市川城(飯綱町)、野尻城(信濃町)に封じ込め、川中島地方はじめ、北信濃の大半を支配下におさめたのである。