川中島の戦い・主要人物

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武田信虎(たけだ・のぶとら)

[明応3年(1494)~天正2年(1574)]
甲斐国を統一し、戦国大名・武田家三代の礎を築いた猛将

甲斐武田家18代当主。武田晴信(信玄)の父。14歳で家督を継ぎ、叔父の油川信恵[あぶらかわ・のぶよし]や、小山田信有[おやまだ・のぶあり]、大井信達[おおい・のぶさと]ら同族合いまみえた内乱をおさめ、甲斐国の統一を果たす。

永正16年(1519)、信虎は領国経営の本拠地となる躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]を築き、領土拡大をはかって信濃への侵攻を開始。また、駿河の今川氏や相模の北条氏とも各地で戦いを繰り広げた。

わが子・信玄に駿河の今川家へ追放され、信州伊那で波乱の生涯を閉じる

天文10年(1541)、信濃の豪族・村上義清[むらかみ・よしきよ]らと協力して小県[ちいさがた]の海野棟綱[うんの・むねつな]を討った信虎は、その同年、晴信と重臣らのクーデターにより、娘(定恵院[じょうけいいん])の嫁ぎ先である駿河へ追放される。クーデターの理由は諸説あり、嫡男晴信との軋轢や、度重なるいくさで疲弊する領内も顧みず、暴虐で専制化する信虎の圧政に領民・家臣の不満が高まったためともいわれる。甲斐を追放された信虎は今川義元の庇護下で暮らすが、永禄3年(1560)桶狭間[おけはざま]の戦いで義元が織田信長に敗れると、信玄に駿河攻めを促すなどの画策により、今川家から追い出されてしまう。その後、信虎は縁故を頼って京都に上り、信玄没後の天正2年(1574)、甲斐の地を二度と踏むことなく、信州伊那で81歳の天寿をまっとうした。

伊那市高遠の桂泉院[けいせんいん]には、信虎の墓があり、高遠城で壮絶な最期を遂げた信玄の五男・仁科盛信[にしなもりのぶ](信盛とも)の位牌もおさめられている。信虎の墓は、高遠城南の法幢院(ほうどういん)にあったが、のちに現在の桂泉院裏の月蔵山[がつぞうざん]中腹に移されたといわれている。

武田典厩信繁(たけだ・てんきゅう・のぶしげ)

[大永5年(1525)~永禄4年(1561)]
武田信繁、左馬助
※武田二十四将の一人でもある。
武田の副大将として兄・信玄を支え続けた稀代の名将

武田信虎の次男で信玄の実弟。母は大井(おおい)夫人。幼名次郎、元服して左馬助信繁[さまのすけのぶしげ]と名のる。典厩[てんきゅう]とは左馬助の唐(中国)名。

父信虎は信玄よりも信繁を寵愛し跡目相続にと考えていたという。晴信(信玄)による信虎追放後は兄の臣下となり、副大将として兄を支え続けた。文武両道に優れ、誠実な人柄で家臣からの人望も篤く、たぐいまれなる名将と後世に讃えられた。嫡男・信豊[のぶとよ]に伝えた九十九ヵ条の教訓「信玄家法」は、江戸時代の武士教育にも影響を与えたといわれる。

川中島の激戦で兄を守り討ち死に、ゆかりの典厩寺に眠る

永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、鶴翼[かくよく]の陣の左翼隊を率い、大乱戦の中で討ち果てた。『甲越信戦録』によると、信玄本陣に押し寄せる上杉勢に武田劣勢とみた信繁は、兄の身を案じて、「私が敵の攻撃を防いでいる間に、勝つ算段を考えてくださるように」と使いを送った。そして自分の黒髪と母衣[ほろ]を形見として息子・信豊[のぶとよ]に手渡すようにと家臣に託し、「われこそは信玄の弟、武田左馬之助信繁なり!われと思わん者はこの首をとれ!」と大音声をあげ、敵中に突入し奮戦、最期は鉄砲で撃たれ、宇佐神駿河守定行[うさみするがのかみさだゆき]の槍に突かれて討ち死にしてしまう。

信繁の遺体は水沢の地に埋葬され、のちに初代松代藩主・真田信之[さなだ・のぶゆき]が信繁の菩提を弔ったという典厩寺[てんきゅうじ]にその墓はある。

武田刑部少輔信廉(たけだ・ぎょうぶのしょうゆう・のぶかど)

[1525、1528、1532年等諸説あり~天正10年(1582)]
武田信廉・逍遙軒信綱
※武田二十四将の一人でもある。
兄・信玄を支え続けた武田親族衆の筆頭。 戦国期屈指の武人画家としても知られる

武田信虎の三男で、信玄信繁の同母弟。幼名孫六、のち逍遙軒信綱(しゅようけんのぶつな)と号した。親族衆の筆頭として信玄本陣を固め、情報戦略の面でも力を発揮し、兄・信玄を補佐した。永禄4年(1561)の川中島の戦い、天正3年(1575)長篠の合戦にも参陣し、勝頼が躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]に入ると伊那高遠城の守将をつとめた。天正10年(1582年)織田軍の甲斐攻めで伊那を追われて甲斐に退却するが、捕らえられ古府中で処刑された。

信廉は戦国期屈指の武人画家としても有名で、父・信虎と母・大井夫人を描いた画像は、現在国の重要文化財となっている。

信玄の影武者ともいわれる人物

風貌が酷似していたことから、信玄の影武者をつとめた人物といわれている。第4次川中島の戦いでも信玄の影武者を演じ、また、信玄が伊那駒場で没したときも、兄になりすまして甲府に軍を戻すことに成功させたというエピソードがある。

『甲越信戦録』によると、第4次川中島の戦いで上杉謙信が信玄の本陣に斬り込む際、間者を放ち、信玄の居所を探らせた。信玄本陣に見事入り込んだ間者たちは、大将然とした法師姿の武者が二人並んでいるのを見て、どちらが信玄か見極められなかった。その時、太郎義信(信玄の息子)の苦戦の報を受けた一方の武者が「我に構わず太郎を救え」と叫んだ。間者らはその声を発した武者が信玄だと見届け旗を振り、謙信はその合図の旗をめざして一騎討ちに挑んだ。この時のもう一人の法師姿の武者が、実は逍遙軒信綱(信廉)であったという。

武田四郎勝頼(たけだ・しろう・かつより)

[天文15年(1546)~天正10年(1582)]
武田勝頼
諏訪家の名跡を継ぎ、武田家最後の後継者となった由布姫の子

武田家20代当主。武田信玄の四男で武田家最後の後継者。母は由布姫(諏訪頼重の息女・諏訪御料人)。諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪四郎勝頼と名乗り、永禄5年(1562)伊那高遠城主となる。

信玄は反発する嫡男・義信[よしのぶ]との不和から、勝頼を偏愛した。元亀4年(1573)、信玄が死去すると勝頼が跡を継ぎ、甲斐の躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]に入る。

長篠の合戦で惨敗。家臣の相次ぐ離反を契機に滅亡の道を歩む

勇猛な武将として名をあげ、徳川方の高天神城[たかてんじんじょう]を落とすなど武田の版図(領土)を広げたが、天正3年(1575)長篠の合戦で織田・徳川連合軍に大敗。多くの将兵を失い大打撃を受けた甲州軍は、家臣らの内紛も深めながら、弱体化の一途をたどっていった。

そして天正10年(1582年)、織田・徳川・北条連合軍の甲州攻めに遭い、追い詰められた勝頼は、天目山にて子の信勝とともに自害する。享年37歳。これによって名門甲斐武田氏は滅びた。

勝頼に天下取りの夢を託した山本勘助

『風林火山』のなかで、勝頼の将来を由布姫に託された山本勘助は、永禄4年(1561)上杉謙信との川中島決戦で初陣をはやる勝頼をまだ時期ではないと思いとどまらせる。そのまま勘助は、勝頼初陣の雄姿を眼にすることなく、川中島にたおれていった。

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武田太郎義信(たけだ・たろう・よしのぶ)

[天文7年(1538)~永禄10年(1567)]
武田義信
武田家の後継者と目されながら、父・信玄と対立を深め自害した悲劇の将

武田信玄の嫡男。母は三条夫人。信濃・伊那攻めで初陣を飾り、各地を転戦。第4次川中島の戦いでは、旗本50騎、雑兵400騎を率いて武田家の総領の名に恥じない戦いぶりをみせ、二カ所に手傷を負った。小説『風林火山』の川中島の戦いでは、押し寄せる上杉軍から父・信玄を救うため敵本陣に斬り込もうとした義信だったが、武田の血を一人でも絶やさぬようにと山本勘助が代わりにその役を引き受け、謙信の首めがけ修羅場の中に突っ込んでいくクライマックスシーンが描かれている。

武田家の後継者として目された義信だったが、今川義元の長女を正室に迎えていたため、桶狭間[おけはざま]の戦いで織田信長に敗れ弱体化した今川氏を攻略しようとする父・信玄との対立を深める。永禄8年(1565)、叛意を問われた義信は甲斐の東光寺[とうこうじ]に幽閉、守り役の飯富虎昌[おぶ・とらまさ]は処刑される。2年後の永禄10年(1567)、義信は自害。翌年より信玄は今川氏の駿河侵攻を開始したのであった。