執念の石

執念の石

武田・上杉両軍が3万余の死闘を展開した永禄4年(1561)の川中島合戦。上杉軍は車懸かりの戦法をとり、武田軍本陣の信玄めがけ上杉謙信が切り込んできた。謙信の鋭い太刀に、信玄は手にした軍配団扇で受け止めたが、腕に傷を負った。

急を見て信玄のもとに駆けつけた家臣の原大隅守虎胤※(はらおおすみのかみとらたね)は傍らにあった信玄の槍で馬上の謙信を突いた。しかし、槍先ははずれ、拍子で驚いた馬が立ち上がり、一目散に走り去った。主君の危急を救いながらも、謙信を取り逃がした原大隅が、その無念さから傍らの石を槍で突き通したと伝えられるのが、この執念の石である。

場所は川中島古戦場史跡公園(川中島古戦場)内。
※参考文献:『甲越信戦録』

岡澤先生の史跡解説

原大隅守虎胤(はらおおすみのかみとらたね)は、永禄4年の川中島の戦いに、中間頭(ちゅうげんがしら)として出陣し、信玄を守護していた。馬上から切り下ろす白覆面(頭巾)の騎馬武者を見て、主君の大事と持ち槍で、とっさに騎馬武者を突いたが、突きはずし、馬の三途をしたたかに打った。そのため、馬は驚いて跳ね上がって駆け出し、信玄は九死に一生を得た(『甲越信戦録』)。

八幡原の激戦の後、大隅守は功によって、会村(あいむら・長野市篠ノ井会)と原村(同長野市南・北原)を給せられたという(『会村誌』『原村誌』)。大隅守の館跡、墓と伝える史跡が会村にある。「原」の地名は、大隅守からついたという(『原村誌』)。山梨県南アルブス市甲西町島田・妙太寺にも、大隅守の墓があという。同族に原加賀守昌俊(はらかがのかみまさとし)、原隼人佑昌胤(はらはやとのすけまさたね)父子がいる。原美濃守虎胤(はらみののかみ)は別系で、房州(千葉県)出の平家原氏という。

“大隅守が突き損ね、馬の三途をしたたか打った”
として甲越信戦録に出てくる「三途」は、「三頭」※、「三里(さんり)」であるとの説が濃厚。「三里」は灸(きゅう)つぼの名で、膝頭の下の外側にある少し窪んだところ。ここに灸を据えると足を丈夫にし、また、万病に効くという。芭蕉が奥の細道の旅に先立って、「股引(ももひき)の破れをつづり、笠の緒つけかえて三里に灸すゆるより、まづ松島の月心にかかりて…」(『奥の細道』)、また『柳多留(やなぎだる)』に「おく家老さんりをだして馬に乗り」とある。三里(三途、三頭)は馬の脚にとっても急所にあたる。

※補足)川中島古戦場史跡公園内の「執念の石」解説看板には「三頭」と表記されています。

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