甲越信戦録とは?

川中島の人間が書いた地元長野の本

 武田信玄と上杉謙信、戦国を代表する名将同士が直戦し歴史に名を残した“川中島の戦い”は、江戸時代になってから、数多くの書物に描かれてきました。特に第4次の激戦を詳細に描いた『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、武田流の軍学書として武士の間で広く読まれ、その代表書とされています。

 これら数ある書物の中で、戦いの舞台となった地元“長野”には、川中島の人間が書き記し、何代、幾人にも読み継がれてきた本があります。それが『甲越信戦録』(こうえつしんせんろく)です。全八巻におよぶ和綴じのこの本は、文章から挿し絵、さらには表紙にいたるまで、一冊一冊、すべて人の手で書き写しを重ねながら、川中島地方の家々に連綿と伝えられてきました。

物語を通して人の心のあり方を諭す道徳の教科書

 『甲越信戦録』の元本は、江戸後期、文化7年(1810)以降に書かれ、作者は不詳とされています。歴史的事実を記した史書ではなく、『平家物語』や『太平記』と同じ戦記物語ですが、単なる物語ではありません。その内容から、川中島地方の当時の知識人であった寺子屋師匠が、地元でも歴史に名高い“川中島の戦い”にこと寄せて、「人間愛」や「報恩」の大切さを教えようとしたのではないかと推測されます。それと同時に、戦乱に巻き込まれて犠牲になった多くの里人たちや将兵たちへの鎮魂の思いも込めて書かれたとも思われます。

川中島戦記の決定版!

 本の内容は、「巻一」の冒頭にもありますが、江戸時代、三代将軍徳川家光が上杉家家臣に命じて書かせた『甲越信戦録』(『川中島五戦記』)を主な柱として、武田側の『甲陽軍鑑』や『武田三代記』、また『北越軍記』『本朝三国志』といった12通の版木本と、『川中島評判記三巻』『諸家見聞記二十巻』などの6つの写本に加え、さらに地元川中島地方に伝わる数々の伝承をもとにして執筆されています。

「人間愛」という普遍的テーマのもと、これらの書物のエッセンスを盛り込み、かつ地元の人間だからこそわかる自然風土を踏まえて描かれただけに、歴史ロマンあふれる読み物としても面白く、また川中島の歴史と文化を知るための手引き書ともなり、まさに「川中島戦記の決定版」と呼ぶにふさわしい書物といえるかもしれません。

両雄の一騎討ち、山本勘助の墓~古戦場史跡の多くはこの本から

 武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの場面、山本勘助が討ち死にした胴合橋や墓など、川中島古戦場周辺の史跡の多くは、実はこの本に依拠しています。けれども、その行間からは、“川中島の戦い”の讃歌ではなく、平和の大切さや思いやりの心とは何かを現在の私たちにあらためて問いかけてきます。

 『甲越信戦録』は、そんな作者の思いや心がこめられた「戦国哀歌」なのです。

現代語で読む「甲越信戦録」あらまし

一.発端

『甲越信戦録』作者覚え書き

 「十八公の栄は霜後に一千年の色は雪中に深し」※とは、もっともなことである。関ヶ原の戦い、大坂夏の陣に勝利し、天下を統一した徳川家康。群雄割拠の戦国時代は終わりを告げ、日本は天下泰平の世となった。
※補足:十八公とは、松の異字体「枩」となり、徳川松平十八家を暗示。松の美しい緑は、長い年月、霜や雪に耐え抜いたことによりつくられる。それと同じように、戦国乱世を耐え抜いて幕府を開き、繁栄する徳川家をたとえている。

 元和2年(1616)、家康は逝去し、日光東照宮に祭祀された。やがて三代将軍家光が、過去の記録・日記を見て、諸国の戦いはこと細かに記載されているが、戦国を代表する名将同士が直戦した川中島合戦の実録がない。不満に思った家光は、上杉家に実録を提出するよう求めた。上杉家は細記を改め『甲越信戦録』五巻として献上した。
 ところが、それを旧武田方家臣に見せたところ、武田方の『武田三代記』『甲陽軍鑑』『信玄全集』とはずいぶん異なる記述があり、旧家臣たちは異を唱えた。そこで足利11代将軍義澄の末子である南光坊僧正に見せ、意見を求めると、「甲州の書いたものは武田の悪事や非分を覆い隠し、虚談が多すぎるが、謙信は事実と違う記述を嫌ったので、事実相違ない」と家光に述べた。家光は疑いも晴れ、満足したこの書を「実録」として書庫に納めたという。  本書は、この上杉家の『甲越信戦録』を柱に、武田方の『甲陽軍鑑』や『武田三代記』、また『北越軍記』『本朝三国志』といった12通の版木本、さらに『川中島評判記三巻』『諸家見聞記二十巻』などの6つの写本、合わせて18書に加え、川中島に伝わる伝承をもとに執筆したものである。

二.武田家由緒のこと

武門の誉れ高き総大将・武田信玄公

 昔は互いに不義を戒め人の道を守ったのに、後世の兵乱では、親兄弟を討ち、他国を奪いとる道にはずれることがまかり通った。兵法の書「呉子」には、「およそ兵乱の起こるところは五つある。一に名を争う。二に利を争う。三に悪を積む。四に内乱。五に飢えによる」とある。天文16年(1547)よりはじまり、永禄7年(1564)に和睦となった甲越の川中島合戦は、名を争うところにある。
 さて、新羅源氏の血を受け継ぐ武田信玄公は、敵国より甲州へ馬を入れたことなく、出陣は信濃・上野・相模など12ヵ国。御代に戦うは56度、攻める城はすべて落とし、戦に負けたことのない日本開闢(かいびゃく)以来の総大将であった。

三.山本勘助由緒のこと

勘助兄弟、野良のかたわら武芸・学問に励む

 信玄公の頃、山本勘助康時という者がいた。のちに晴幸と名のった。背は五尺に足らぬ小男で、色は黒く隻眼(せきがん。目が片方しか見えないこと)で、その姿は醜かった。弟・三七重頼は、人相は温和優美で、目は青色に澄んでいた。後に山本帯刀と名のり、上杉家に仕え、徳川家康公に奉公して軍学を伝えた。
 山本家は、新羅三郎義光の長男・義業[よしなり]にはじまる。勘助兄弟の祖父は参州牛久保(愛知県豊川市牛久保)に住む郷士であったが、駿河の今川氏に領地を奪われ、子孫は農民となった。
 勘助兄弟は新羅源氏の家にありながら農民として暮らすのは無念と思い、兄弟申し合わせて、暑さ寒さをも厭(いと)わず、武芸に励み、書を学んだ。母には孝を尽くした。文武に秀でた兄弟の噂は国内外に広まり、尾州織田備前守信秀の家臣・正木弾正[まさきだんじょう]が噂を聞きつけて、勘助と互いの術を試みるほどであった。

勘助、猪に右目を突きつぶされる

 ある日、弟と薪を取りに出かけた勘助は、いっときの休みの合間に腰の七書(中国の兵書)を取り出して夢中で眺めていた。そのとき突然背後より手負いの猪が襲いかかり、勘助に牙をかけた。不意を突かれた勘助は猪を投げつけようとしたとき、牙で右眼を突きつぶされた。
 勘助はこの事件以来、一層武術に凝るようになった。猪ともみ合った際に剣術の流儀を工夫し、自ら猪谷流〔いがやりゅう〕と名づけた。
 それからまもなくして、母親が病で亡くなった。そこで勘助兄弟は年来の望みであった武者修行に励むべく、故郷参州牛久保を旅立った。

四.山本勘助諸国修行のこと

勘助、城取り・築城術を隠士より伝授される

 参州牛久保を旅立った勘助は、和泉国堺(大阪)の津にたどり着き、そこで角隅右宗[かどすみうそう]という隠士に出会った。
 右宗は、唐土流の城取縄張の術に優れ、門人も多く抱えていた。住吉を参詣し小町茶屋でひと休みしていた勘助を一目見て、右宗は「ただ者ではない」と見抜いた。「賢でなければ賢を知らず」と勘助の智勇兼備を見込み、右宗は授けるべく者のない秘事口伝の術を伝授する。
 惜しむよう右宗と別れ、これより勘助は、「将来の主君に献じよう」とまわる国々で城の図を写し、記録を残していった。

勘助、立ち会いの仇を受ける

 播州加治(姫路市)に、橋本柳巴斎[はしもとりゅうはさい]という剣術の達人がいた。勘助は、摩利支天の再来とうたわれる橋本と立ち会いを望み、見事打ち伏せる。ところが門人たちは「師が打ち伏せられては他国に恥を伝えてしまう」と、勘助の暗殺を謀る。闇討ちされた勘助は、十四人もの敵に手傷を負わせたが、額と腕、さらには左足のつけねを割き切られた。
 手傷を負いながらも勘助はどうにかして津山(岡山県)に落ちのび、浪人・荒木重太兵衛のもとで傷養生の世話になる。「武士は相互い」という仁心厚い荒木のおかげで勘助の傷も癒えるが、左足は不自由の身となってしまった。

勘助、今川義元公と対面す

 備前・備中、周防、長門、そして九州と日本各地を行脚した勘助。そこで、それぞれ訪ねた国の風土、国人の気風を考えてみた。すると、東海は国が高く、天に近い。結果、武士は尾張より甲斐までの間、つまり尾張に信長、参河に家康、駿河に義元、甲州に信玄、いずれの者こそが日本の大将であり、己の主君となりうると仕官するにふさわしい大将候補を決めた。
 西国から戻り、故郷も懐かしく牛久保にしばし立ち留まった勘助を、今川義元公の家臣・朝日奈備中守安興[あさひなびっちゅうのかみやすおき]が伝え聞き、義元公に召し抱えを勧めた。
 そして、義元公の前に召し出た勘助だったが、その容姿の醜さと不格好さに呆れて義元公は言葉もでない。しかしながらも、「われに仕えるなら百貫を与えよう」という。勘助はそんな義元公の顔の相を見て、「自分の勇猛を誇り、他の善悪を知らず、殊に剣難の相あり」と主君と頼む人物ではないとして辞退する。勘助の眼中どおり、義元公は信長に討たれた。
 今川家の家臣・庵原安芸守[あんばらあきのかみ]は、勘助を惜しんで遊客として留め置いた。勘助はこの逗留で契った女性との間に男子をもうけ、のち夥(おびただ)しい人々が山本家の子孫と称するようになるのである。