標高780m、尼巌山(あまかざりやま、尼飾山、雨飾山)の険しい絶壁の山頂に、土豪・東条氏が築城したとされる詰めの城。東条城とも称される。
信玄は真田幸隆(さなだ・ゆきたか)に、謙信側の軍事拠点であったこの城の攻略を命じ、幾たびかの攻略戦の末、弘治2年、堅固を誇る尼飾城をようやく陥落させたという。のち信玄は城を普請させ、越後勢に対する第一線の総指揮官・高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのじょう※・まさのぶ)が城将として駐屯。北信濃への戦略拠点である海津城を築くとその外郭とした。三方が断崖で、西北は尾根という堅固な要害(ようがい)であり、北国街道の可候(そろべく)峠を監視する役割も担っていたという。小説『風林火山』でも、山本勘助が川中島に海津城を築くにあたり、高坂弾正とともにこの城に詰めて対謙信の構想を練った。
天正10(1582)年に上杉景勝(かげかつ)が川中島周辺を征圧すると、東条氏が城主に復帰するが、のち景勝の会津移封によって廃城となった。
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。
岡澤先生の史跡解説
松代付近では、「一に春山(若穂綿内・綿内氏)、二に鞍骨(くらほね・松代町清野・清野氏)、三に尼飾」といわれ、尼飾城(尼巌城とも書く)は、堅固な山城に数えられていた。三方は断崖絶壁で、北西だけが尾根続きになっている。南方の敵に備えて築城されていることがわかる。
天文22年(1553)8月8日、武田信玄は真田弾正忠幸隆に対し、「東条あまかさ(ざ)り城、その後いかに候や。片時にも早く攻め落とすよう相勤めらるべく候。ここもとのことは、両日人馬を安め候あいだ、いっそう次第相勤めらるべく候。いよいよ方々の遠慮なく、御計策肝要に候」と尼飾城攻略を督励している。東条氏の館跡は玉依姫命(たまよりひめのみこと)※神社の鳥居先の東光寺の下、般若寺にあったという。館跡と伝える地に古い五輪塔群がある。東条氏の廟所と伝えている。海津城の石垣で赤味のある石(東条石)は、この城の石垣であった石といわれている。可候峠(そろべくとうげ)は「可候(そうろうべし)」の草書体のように曲がりくねっているところからついたという。
※補足
「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」の「ひめ」の字は、「比売」や「比女」とする説もある。
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