川中島の戦い・主要人物
今川義元(いまがわ・よしもと)
- 母・寿桂尼とともに駿河・今川家の采配をとった信玄の義兄
駿河の守護大名・今川氏親[いまがわ・うじちか]の子。母親は京都の公家である中御門宣胤[なかみかどのぶたね]の娘・寿桂尼[じゅけいに]。二人の兄の死後、氏親の側室の子・玄広恵深[げんこうえたん]と相続争い(「花倉[はなぐら]の乱」)の末、天文5年(1536)に家督を掌握。梅岳承芳[ばいがくしょうほう]と称する僧であったが、還俗して今川家9代当主となる。
正室は武田信虎の娘(信玄の姉)定恵院[じょうけいいん]。氏親時代から対立関係にあった武田とは友好関係を深め、三条[さんじょう]夫人が武田晴信(信玄)の正室となったのも今川家の斡旋によるものという。また、のち甲斐から追放された信虎は義元の庇護を受けることになる。
- 川中島の戦いで武田・上杉を調停。「海道一の弓取り」は桶狭間で敗れる
天文23年(1554)には相模の北条氏康[ほうじょう・うじやす]と戦うが、勝敗決せず、晴信、義元、氏康の三者が互いに姻戚関係を結ぶことで和睦。甲・相・駿の三国同盟が成立し、義元は駿河・遠江・三河を支配下におさめ、「海道一の弓取り」といわれるほどの大きな勢力を築き上げた。弘治元年(1555)、武田・長尾(上杉)両軍が長期にわたって対陣した第2次川中島の戦いでは、義元が乗りだし、和睦成立の仲介もなす。永禄3年(1560)京都への西上の途中、織田信長との桶狭間[おけはざま]の戦いで討ち死に。享年42歳。以後、今川家の勢力は衰退していく。
- 今川家にも仕官を望んだ山本勘助
『風林火山』の物語には、山本勘助が今川家への仕官を望み続けたが、拒まれて武田晴信(信玄)のもとに向かった。また、『甲越信戦録』では、「お前のようなものでも召し抱えてやろう」と言う義元を「自分の勇猛に誇り、他の善悪を知る人物ではない」と、勘助のほうから主君としての見切りをつけている。
北条氏康(ほうじょう・うじやす)
- 河越[かわごえ]夜戦で武名を轟かせ、関東一円を制した相模の獅子
小田原・後北条[ごほうじょう]氏3代目当主。北条氏綱[ほうじょう・うじつな]の長男で、戦国大名の先駆けといえる北条早雲[ほうじょう・そううん]の孫。天文10年(1541)に家督を継ぎ、初代早雲が築いた領国を次々と拡大。難攻不落とされる相模小田原城を本拠地に関東一円の支配をめざし、武田信玄・上杉謙信と覇を競った。
天文15年(1546)、今川義元と提携した関東管領[かんとうかんれい]上杉憲政[うえすぎ・のりまさ]らの軍勢をわずか10分の1の兵力で撃破した河越[かわごえ]夜戦で武名を轟かせる。天文20年(1551)には上杉憲政を越後に追放し、関東の大半を手中におさめる。天文23年(1554)の甲・相・駿の三国同盟にあたっては、子の氏政[うじまさ]のもとに武田信玄の長女(黄梅院[こうばいいん])が嫁ぎ、今川氏真[いまがわ・うじまさ]のもとには娘を嫁がせた。永禄10年(1567)、信玄が駿河に侵攻したことで同盟は破れ、氏康は一時上杉謙信とも手を結んだ。
- “氏康傷”は勇者の証し。軍略・民政に卓越した手腕を発揮する
氏康は、勇猛で武略に長じ、外交・内政ともに卓越した力を発揮した。顔に2カ所、体に7カ所の刀傷があり、16歳で初陣以来、36回の合戦に出陣したが、一度も敵に背を見せなかったことから、向う傷のことを「氏康傷[うじやすきず]」と呼ぶようになったという逸話もある。また、戦国随一の民政家とも評され、文武両道に秀でた名将であった。元亀2年(1571)、氏政に武田との和睦をはかるようとの遺言を残し、57歳でこの世を去った。領主の死に多くの家臣・領民が涙を流して悲しんだといわれる。その後、北条家は孫・氏直[うじなお]の代に豊臣秀吉によって滅ぼされた。
諏訪頼重(すわ・よりしげ)
- 義兄・武田信玄に滅ぼされた諏訪総領家の当主
諏訪神社上社[かみしゃ]の神官家・諏訪氏の当主。祖父・頼満[よりみつ]は、下社[しもしゃ]の金刺[かなさし]氏をおさえて上原城を本拠として諏訪地方を統一した。頼満の死後、父・頼隆[よりたか]が早世したため、天文8年(1539)、24歳の頼重が諏訪家を継ぐ。翌年には武田信虎の娘(信玄の妹)禰々[ねね]を妻に迎え、武田家と同盟関係になる。
村上義清(むらかみ・よしきよ)
- 葛尾城を本拠として、北信濃に一大勢力を誇った戦国武将
- 上田原の戦いと「砥石崩れ」、無敵の武田軍団を二度も破り、信玄の信濃攻略を阻む
天文17年(1548)、義清の軍勢は、信濃攻略を進める武田信玄と上田原で戦い、板垣信方[いたがき・のぶかた]、甘利虎泰[あまり・とらやす]といった有力武将を討ち取って、無敵といわれた武田軍に勝利する。さらに天文19年(1550)の砥石城[といしじょう]の合戦では「砥石崩れ」と称されるほどの大打撃を武田軍に与え、信玄に二度も苦杯をなめさせた。
しかし、その勝利もつかの間、翌天文20年(1551)に、義清に臣従していた各地の領主たちは次々と武田に調略され、難攻不落といわれた砥石城を真田幸隆に乗っ取られてしまう。同盟関係にあった筑摩郡[ちくまぐん]の小笠原長時[おがさわら・ながとき]も信濃を追われ、義清は次第にその勢力を弱めていった。
- 武田軍に抗いきれず、越後の上杉謙信を頼った義清。そして、川中島の戦いは始まった
天文22年(1553)4月、武田軍の攻撃により、本城・葛尾城もついに自落。城から逃れた義清は、北信濃の高梨[たかなし]氏や井上氏らとともに越後の上杉謙信に救援を求め、これを機にして、12年の長期におよぶ川中島の戦いは始まる。
求めに応じた謙信の信濃出兵で一時は旧領を回復した義清だったが、武田軍の追撃をかわすことはできず、嫡子・国清[くにきよ](のち景国[かげくに])とともに越後へと敗走。以後、上杉謙信の配下となって、幾度もの川中島の戦いに参戦するが、自領復帰はかなわず、元亀4年(1573)正月、越後根知城(新潟県糸魚川市)で没した。享年73歳。
武田氏滅亡後、上杉景勝[うえすぎ・かげかつ](謙信の養子)に臣従した子の景国は、海津城主を命じられて、越後に召還されるわずかな間だが故地に返り咲きを果たしている。
現在、村上氏の本拠だった坂城町には義清の供養塔が建っている。また上越市の光源寺[こうげんじ]にも五輪塔がある。
高梨政頼(たかなし・まさより)
- 上杉謙信と縁戚関係にあった北信濃の有力土豪
高梨氏は、井上氏の一族で、南北朝時代から戦国期にかけて高井郡から水内郡にかけて勢力を誇った北信濃の有力な国人領主であった。戦国時代、越後守護代の長尾為景[ながおためかげ]を援護して関東管領の上杉顕定[うえすぎあきさだ]を討ち取り、近隣の地侍を配下にし、中野郷(中野市)を本拠とした。
越後の長尾家とは代々縁戚関係を結び、為景の妹を妻に迎えた政頼は、長尾景虎(上杉謙信)の義理の叔父にあたる。長尾晴景と景虎の家督争いの際は、景虎を支持した。
- 武田軍の圧力に耐えかね、村上義清らとともに上杉謙信を頼り、川中島の戦いを惹起する
政頼は、東信濃の村上義清と対立関係にあったが、武田信玄による脅威が北信濃にも及ぶと、義清と和睦して共同戦線を張り、天文19年(1550)武田軍の砥石城攻め後、反旗をひるがえした寺尾氏の寺尾城を攻撃するなどした。
天文21年(1552)信玄に本領を追われた林城主の小笠原長時は、子の貞慶とともに、長尾家に縁のある高梨政頼を介して越後の長尾景虎を頼った。天文22年(1553)には村上義清の葛尾城が自落し、北信濃は一気に武田の脅威にさらされ、義清と政頼はじめ、井上・島津・須田・栗田氏ら信濃国人衆も景虎に救援を求めた。義に厚い景虎は求めに応じて信濃に出陣。こうして12年におよぶ川中島の戦いが始まった。
越後の援軍を受けた政頼と村上義清らだったが、武田軍の猛攻を阻止できず、弘治年間(1555~1558)に政頼は本拠地の中野郷をあとにし、上杉謙信の庇護下で飯山城(飯山市)を拠点として武田信玄の北信濃計略に対抗した。そして、永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いには、子の秀政[ひでまさ]らとともに上杉軍の先陣を務めた。
- 枯山水庭園跡など貴重な遺構を持つ、国史跡指定の高梨氏館跡
武田氏滅亡後、北信濃が上杉氏の所領となると、高梨頼親[よりちか]の代に本領の一部を回復するが、慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封に伴い、高梨氏も会津へ移ったという。
高梨氏の拠点であった高梨氏館跡(中野市)は、東西約130m、南北約100mの大規模な方形居館で、貴重な枯山水様式の庭園跡をもつ。館跡は公園として整備されており、2007年には国史跡に指定されている。