信玄の実弟であり、武田の副将・典厩信繁(てんきゅう・のぶしげ)は、文武両道に優れ、家臣の人望も厚いまれにみる名将であった。父・信虎(のぶとら)は彼を跡目相続にと考えていたが、信繁は副将として兄・信玄を支え続けた。
永禄4年(1561)9月10日の川中島合戦で討ち死にした典厩信繁の遺骸は陣営地であった鶴巣寺(かくそうじ)境内に埋めた。塚は典厩塚といわれていたが、元和年間に松代(まつしろ)藩主真田信之(さなだのぶゆき)により鎌原家が碑を建立。鶴巣寺は寺号を典厩寺と改め、典厩信繁の菩提と武田・上杉両軍の戦死者を弔った。法名は「松操院殿鶴山巣月大居士」。
岡澤先生の史跡解説
自然石に「松操院殿鶴山巣月大居士」と陰刻されている信繁の墓碑は、真田信之の5女、於台(おたい・見樹院)の命で、真田藩家老鎌原重継(かんばら・しげつぐ)が、元和年間(1615~1624)に建立した。
八幡原激戦の当日、信繁は信玄本陣左翼の備えとして、八幡原南方1Kmほど離れた地に、7百の兵とともに布陣していた。川中島の霧が薄らぎ始めるころ、突如と襲いかかる1万3千の上杉勢。武田軍は不意を突かれて大混乱に陥った。信繁は味方の劣勢が明らかになるのを見て、信玄の身が案じられた。そこで信玄に急使を送り、「某のことは安じ召されるな、それより某、敵を防いでいる間に御勝利の算段を」と伝えさせ、腹心の家来、春日源之丞を馬前に呼び寄せ、信玄直筆の法華経陀羅尼品(だらにほん)の経文を金粉で書いた母衣(ほろ・鎧の背につける幅広の布)と、乱れ髪の一握りを切って渡し、「父の形見として吾子、信豊に与えよ」と遺言し、群がり寄せる越軍の中に討って出て、壮烈な討死を遂げた(『甲越信戦録』)。享年37歳。
この信繁の信玄を気遣い討死した心情は、異母兄勝頼のために、高遠城で壮烈な討死をした仁科五郎盛信(信盛とも言われる)の心情と共通する。武田逍遥軒(たけだ・しょうようけん。叔父)・穴山梅雪(あなやま・ばいせつ。従兄弟)・木曾義昌(妹婿)・北条氏政(側室兄)、小山田信茂(普代家臣)らが相次いで武田方を見限っていくなかで、勝頼は土屋惣蔵ら50人ほどの従者と田野で天正10年(1582)3月10日自害した。これに先立って仁科五郎盛信は、織田信長の誘いを拒否し、高遠城で壮烈な討死を遂げた。
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