戦記「甲越信戦録」巻の八

一.武田義信・山形昌景働きのこと

武田太郎義信、奮戦す

 上杉軍に向こう備えを破られ、利を失った甲州勢であったが、信玄公は床几の場所を移さず、平然として「見よ!見よ!今に勝ちとなろうぞ」といわれる。この御大将の一言で兵たちの士気がいっこうに落ちることがない。

 武田太郎義信は、信玄公の向こう備えが破られたので、自身が父の全面の敵に打って出て戦う。その軍勢は五百騎ほどで容赦なく敵を討ち、ここを最後と戦われた。

 上杉方の村上義清・柏崎日向守らの軍勢が義信を討ち漏らすまいと攻めかかり、義信は浅傷を二か所に受けてしまった。もはや危うし、と義信の苦戦に気づいた初鹿野源五郎(はじかのげんごろう)、近づく敵を突き倒して君を守ろうと戦うが、村上義清が積年の恨みを晴らそうとなりふりかまわず斬り込み、初鹿野はあえなく村上に討たれてしまった。

山形昌景、鬼小島弥太郎に勝負を挑む

山形昌景

一方、甲州方の英士として知れ渡っていた山形三郎兵衛昌景※は、四尺三寸の大太刀を真正面にふりかぶり、荒浪が岩を叩くがごとく、突進しては敵を切り伏せ切り伏せ、さっと引く大奮戦。敵も味方も「あっぱれ勇士」と誉め讃えた。

 また、上杉方でもその名も高き鬼小島弥太郎一忠は、「三国一」と書いた差物(さしもの)を風に吹かせ、甲州勢の中によき敵はいないかと馬に乗って飛び廻る。その時、甲州方より撃ち出す鉄砲激しく、鬼小島の乗っていた馬が弾丸に当たって倒れてしまった。鬼小島は馬を捨て歩(かち)立ちとなって駆けまわっていると、山形に巡り会う。

 これは願ってもない敵ぞと近寄れば、山形昌景はにらみつけ、
 「三国一の差物は、噂に聞こえし鬼小島弥太郎殿とお見受けした。敵にとって不足なし、いざ!」と馬を近づけ、四尺三寸の大太刀を振り上げる。鬼小島も「望む相手ぞ! いざ!いざ!」と槍の塩首(しおくび・槍の穂[刀]の根元。突出部のくびれた部分)を握って、鉄石をも貫かんと馬上の山形をにらんで身構えた。山形も鬼小島をにらみすえ、相互に槍を突き出し、大太刀を降り下そうとしたが、互いに隙を見いだせなかった。

※山形三郎兵衛昌景=山県三郎兵衛尉昌景。

山形、鬼とはいえぬ弥太郎に、武士の気高さをみる

 山形昌景と鬼小島弥太郎、じりっじりっと戦えど、勝負はなかなかつかない。ふと山形が広瀬の方に目をやれば、太郎義信が越後勢に取り囲まれ、手傷を負ってはなはだ危うい。これを見るや山形はなんとかしてお救い申さねばと思ったが、鬼小島と戦っている最中で、どうすることもできない。そこで鬼小島に向かって、「弥太郎殿、しばらくこの勝負待って下され」と声をかけた。

 弥太郎は笑って、「互いに命をかけた戦いに待てとはなにごとぞ」とは言いつつも、勇士たる山形昌景なれば卑怯未練のことはなかろうと、槍構えの手を緩めた。山形は、「御覧の通り、我が太郎義信公が大勢に取り囲まれてお命が危ない。どうか主人の急難を救いたい。武士の情けで、どうかこの勝負は許してくだされ」と懇願した。

 鬼小島はうなずいて、「許し難いところだが、主人を思うは武士の習い。貴殿の忠義に免じ、この勝負は、ご縁次第」と槍を担いで引いて行く。山形は心の中で「花も実もある武士(もののふ)よ。これほどの将に鬼とはいったい誰が名づけたのか」とつぶやいて、そのまま一目散に広瀬に馬を飛ばし、義信を援護して戦った。山形のこの働きで、義信は急難を免れたのである。

二.小笠原若狭守死を遁れること

桑山茂見、見事主人の身代わりとなって討ち果てる

 武田の高家衆(こうけしゅう)、小笠原若狭守は、この戦いは味方の負け戦となれば、潔く最期を遂げようと、勝ち誇る上杉勢の真ん中へ切って入り、武田の兵たちを励まし戦った。自身は頭に一か所傷を受け、流れる血潮と返り血で、顔は百日紅(さるすべり)の花にも劣らず真っ赤に染まった。率いる兵の多くは飛び来る矢玉で討ち死にした。

 小笠原の三蓋菱(さんがいびし)と見るや、越後兵は大浪の寄せるごとく喚声を上げて取り囲んだ。若狭守はもはやこれまでと思った時、若狭守の鎧と兜(よろいとかぶと)を取り替えた家臣・桑山茂見(くわやましげみ)が、主人の身代わりと前に立ち、「新羅三郎義光の末裔、小笠原若狭守今討ち死にせん」と叫んで、相手を選ばずに戦った。上杉方宇佐美定行の家臣・三浦与左衛門はこれを見て、「あっぱれ、よい敵よ」と槍を持って渡り合い、ついには桑山を突き伏せ、首を取る。

 桑山の忠死によって死を免れた若狭守は、血で恐ろしい形相になったのを幸いに、落ちていた槍に雑兵の首を貫いて、越後勢のように見せかけて引き上げた。

狐丸塚の不思議な伝承

桑山茂見の墓

 小笠原若狭守が帯びていた太刀は「狐丸(きつねまる)」という名剣である。この大激戦で打ち落とされ、所在不明となった。川中島では、戦いが終わってから、太刀も槍も死骸と一緒に埋めた小山のような塚があちこちにつくられた。ところが不思議なことに、一つの塚に数多くのキツネが夜毎に群がり集まって鳴くという。この地の領主でもあった若狭守は、この噂を聞いて里人に命じ、塚を掘らせてみたところ、屍の中に狐丸の太刀があったという。

 広田・藤牧(長野市稲里町田牧)・篭村(長野市川中島町戸部)の間にある塚がこの狐丸塚である。

三.信玄・謙信直戦のこと

信玄を討つべく、居所を求める謙信公

 上杉謙信公は、直戦を心がけて、信玄公の居場所を捜し求めた。その日の出で立ちは、紺糸の鎧の上に、萌黄緞子(もえぎどんす)の胴肩衣(どうかたぎぬ・袖のない胴服)を着て、金の星兜(ほしかぶと・10~20枚前後の鉄板をはぎ合わせ、鋲で打ち留められていた半球形の兜。留鋲の頭は星と呼ばれた)の上より白練りの絹で顔を包み隠し、三尺一寸の小豆長光(あずきながみつ)の剣を抜き、放生月毛(ほうしょうつきげ・白い毛に濃褐色のさし毛「葦毛」のやや赤ばんだ毛色)の駒に乗り、斥候に出した須賀但馬守、山吉玄蕃頭の合図の旗を今や遅しと待っておられた。

  一方、武田信玄公の出で立ちは、黒糸の鎧を着て、黄金造りの武田菱・諏訪法性(すわほっしょう)の兜をかぶり、これまた黄金造りの太刀を帯び、緋の衣の袖を肩にかけ、軍配団扇(うちわ)を持って、床几に悠然と腰をかけておられる。

 半町(約50m)ほど離れて、信玄公と同じ出で立ちの法師武者がいる。これは信玄公の影武者で、御舎弟の武田信連入道逍遙軒殿である。上杉方より紛れ込んだ山吉と須賀は、左右に同じ信玄公の姿を見て、どちらが本人か見極められずにいると、広瀬の方で太郎義信が敵に囲まれて、はなはだ危うい。これを見た信玄公は大いに驚き、「あれ!義信危うし、旗本ども我にかまわず太郎を救え」と命じたので、傍に控えていた内藤修理、浅利式部、原隼人義信を救おうと広瀬に馬を飛ばした。

 このありさまを見た山吉と須賀は、「実の信玄公をしかと見届けたり!」と、腰に巻いていた合図の「毘(び)」の旗を槍の穂先に結びつけ、馬上よりさっと揚げた。紛れもなく合図の旗がなびくのを見て、謙信公は馬を出した。馬回りには一騎当千の者ども十二騎ばかり。疾風のごとくに信玄公目がけて進撃し、向こう備えの跡部・長坂の勢を破って本営に迫った。

馬上より太刀を浴びせる謙信公、
軍配団扇で受ける床几の信玄公。
世にも稀なる大将同士の一騎討ち

信玄・謙信一騎討ちの像

 信玄公の傍には、党の者と呼ばれる二十人の強力の勇士が皆徒(かち)立ちで主君を守護して控えていたが、謙信公の十二騎は槍の穂先を揃えて、そこに切り込む。守護の二十人は屏風のようになって、双方火花を散らして防ぎ戦う。

 謙信公は左の方へ回り、ただ一騎で床几の元へ馬を乗りつけ、小豆長光の太刀で切りつける。信玄公は、床几に腰をかけたまま軍配団扇ではっしと受け留める。また切りつけるを、また受け留める。謙信公は、「今こそ信玄を討ち取ろう」と間髪入れず九太刀まで切りつけた。信玄公はかろうじて七太刀まで軍配団扇で受け留めたが、二太刀は受け損なって肩先に傷を受けてしまった。

三太刀七太刀之跡の碑

  その時、二十人の武田の剛士のうち、原大隅守(はらおおすみのかみ)、何者とも知らず御大将と戦っているので、あわてて駆けつけ、信玄公の脇にあった青貝の柄の槍をすばやく取って、謙信公の胸板めがけて突こうとした。しかし焦りのあまり、狙いははずれて馬の三途(三頭。さんず。膝関節)に当たってしまった。謙信公の馬はこれに驚いて、はるか左の方へ駆け出し、謙信公は無念ながらもその場をあとにした。

 将と将との直戦は稀なことである。この両将の一騎討ちは、誠に信玄公は大将の振る舞い、謙信公は匹夫(ひっぷ)の働きといえよう。一騎討ちがあった場所は、小島田分(長野市小島田町田中)で、八幡原の脇である。畑の名が「三太刀七太刀」というところである。

中間頭・原大隅守の大手柄

 上杉の兵十二騎と山吉、須賀は一つになって、ここぞとばかりに信玄公を討ち取ろうと突進した。旗本二十人の勇士は勇猛を顕し、懸命にこれを防戦する。原大隅守は、「味方の面々よ、今妻女山より小山田、真田小幡の援軍が駆けつけたぞ。この戦、十分味方の勝利ぞ!」と叫んだ。この言葉で、甲州方は勇気を持ち直し、一方の越後方は急に気後れして、右往左往し、退却を始めた。

 原大隅守の一言は、当意即妙の言葉である。敵を弱らせて味方を強くする金言であった。この働きで信玄公の御命が助けられ、原大隅守は戦いが終わって後、ご褒美と感状を賜った。

無念にも八幡原を後にした謙信公

 時に宿敵信玄公を討ち損じた謙信公は、無念やるかたなく、駆け出した放生月毛の馬上で後方の八幡原を振り返り見たが、その途端、落馬してしまった。放生月毛は長坂長閑の軍勢の中へ駆け込んでしまった。

 そこに主人の身を案じて、近臣の芋川平太夫、宇野左馬之介、和田喜兵衛、岩井藤四郎が駆けつけた。御大将の替え馬を見まわしたが、どこにも空馬は見当たらない。そこで宇野左馬之介が敵中に飛び込み、武者を突き落として馬を奪い取り、謙信公の替え馬に差し出した。

 この日は砂煙がしきりに空に吹き上がり、その上、人馬の騒ぎ。一面朦朧(もうろう)として春の夜のようであり、霞や霧がかかったようであった。そのため、敵も味方も目も開け難く、旗を失い、馬印もわからず、白昼というのに同士討ちが始まった。武田方では、信玄公が討たれたと騒ぎ立てた。内藤修理原隼人は、「味方の方々、気力を落としてはならぬ。御屋形様はご無事でござるぞ!」と大声を上げて将兵たちを奮い立たせた。

四.妻女山十頭来ること

武田別働隊、上杉甘粕隊に千曲川の渡河を阻まれる

啄木鳥隊の妻女山夜襲シーンから見る!
動画で見る 第4次川中島の戦いはこちら >>>

高坂弾正

 早暁妻女山に向かった高坂弾正飯富兵部馬場民部、甘利左衛門、小山田備中、同じく弥三郎小幡尾張真田弾正、芦田下野、相木市兵衛等の一万二千の武田別働隊は、謙信に出し抜かれて無念に思い、敵陣を残らず焼き払って、麓の岩野へ下った。高坂弾正はもしや敵は海津城に火を放つこともあろうと、岩野から急ぎ海津城に引き返す。残る面々は一刻も早く川中島へ出ようと千曲川の渚に馬を出した。

 ところが対岸の東福寺には、甘粕近江守の軍勢がそれを待ち構える。武田の軍兵が競って川の中ほどまで来た時、甘粕は采配を振り上げ、千三百余人の軍兵に一斉に弓、鉄砲を撃ち立てさせた。甘粕は自ら川の中へ駒を乗り入れて、長刀を車輪のように振り回し、甲州勢を切り捨てた。

 川瀬を渡りかかった武田軍は、弓玉を射かけられ、命を落とす者 数多く、戦死者、負傷者は千曲の早瀬を流れ、たちまち川は血潮で紅に染まった。

多勢となった武田軍、上杉軍追撃に転ずる

戌ヶ瀬(狗ヶ瀬)

 武田の別働隊はやむを得ず千曲の川上、川下の浅瀬を渡ろうと右往左往し、川中島への出馬が遅れてしまった。狗ヶ瀬、猫ヶ瀬に迂回してようやく千曲の浅瀬を渡ることができた武田勢は、互いに先を争って駆けつけて来る。上杉軍の背後に迫り、「一人残らず討ち取れ!」と大喚声を上げて突入していった。

 越後方は新手の大軍に攻め込まれて耐えられず、総崩れになって、犀川目指して退却しはじめた。それを逃してなるものかと武田勢は追撃する。逃れることができない網代の魚のように越後方は折り重なって死人の山を築いた。この所は今は陣場河原(長野市稲里町中氷飽)と呼ばれている。

 武田太郎義信は鎧にしたたり落ちる血をものともせず、信玄公のもとに馬を駆けつけ、「敵はことごとく退散、味方のご勝利と見えます」と報告した。信玄公も手負いではあったが、平然として、初めて床几から立ち、四方を眺め、「気味よし!気味よし!八幡原より丹波島まで敵の死骸で山をなしておるわい。残兵は残らず討ち取れ!」と命令して、旗本を率いて八幡原の対岸、高畠に本陣を移した。

 海津城の無事を見届けた高坂弾正信玄公のもとへ馬を飛ばし、ご勝利の祝いを申し上げるや、川を渡ってそのまま太郎義信隊に加わった。

甘粕近江守、大将謙信公の行方を案じて撤退す

 そのころ、上杉方の甘粕近江守は千曲川の方より静かに隊を引き取り、途中の敵と一合戦しようと隊列の先頭に立って犀川方面に向かった。それを見た武田方の飯富、小山田、甘利、真田らは願うに幸いと大軍で甘粕勢に襲いかかる。

 甘粕は一千余人の兵を円月のように備え、迎撃したが、多勢に無勢、たちまち五百余人が討ち死にした。敵の大軍の囲みを破ったものの、合戦場に駆けつけた高坂弾正忠昌信が追撃してきた。

 そこへ犀川の退路を守備していた上杉方の直江山城守から使者が来て「合戦に参じた将兵、小荷駄隊もおおかた犀川を渡って引き揚げたが、謙信公の御行方がわからない。ご生死のほども、おぼつかなく存ずる。某(それがし)も犀川を渡り、しばらく旭山の麓の諏訪平で後詰めとして踏みとどまっている。貴殿も早々に軍勢を引き揚げられよ」と口上を述べた。

丹波島の渡し

 甘粕近江守は、御大将の行方不明に大いに驚き、これは一大事と、戦をほどほどに丹波島の方へ引き揚げはじめた。高坂はこれを見て、急に兵を引き揚げるとは、何か事情があるに違いないと察した。数年来海津城代を勤め、川中島の地理に明るかったので、近道をとってなおも甘粕勢を追撃した。

五.丹波島引き口のこと

死闘を切り抜け、甘粕・直江隊、犀川対岸に後詰めの陣を構える

 甲州軍の追撃を受けた越後兵は、かなたの信越国境にある山々を望見し、帰郷の思いにかられて我先に犀川を渡ろうとひしめきあった。

 そこへ真っ先に駆けつけた高坂勢、越後兵を一人も逃すものかと強弓の射手七十余人を川下に立ち並ばせ、一斉に矢を射かけた。このため倒れる越後兵の数は知れず。高坂弾正の配下、駒沢七郎・新三郎兄弟も犀川の向こう岸に駆けつけ、槍を突き奮戦し、川を渡ろうとする甘粕の家臣を討ち取るが、兄の七郎が肩先に傷を受け、弟新三郎はかいがいしく兄に肩を貸し引き揚げた。

甘粕近江守

 さすがに甘粕※は上杉の四天王と呼ばれた者である。二百騎ばかりで高坂と甘利の二勢を引き請け、追いつ、返しつ半時ほど(1時間あまり)戦ったが、日暮れとなり、夕闇が敵も味方も包み始めた。そこで甘粕近江守は手勢を引き連れ、犀川を渡り、兵を引き揚げた。

 後から落ちのびて来た越後兵も犀川を渡ろうとするが、鎧は重く、川の流れは速い。その上地理も不案内のため、溺れて無惨の最期を遂げる者も多かった。

 犀川を渡った甘粕近江守は、川向こうの市村(現 長野赤十字病院から信州大学工学部にかけた犀川左岸地域)に敗軍の兵を集めようと陣を張った。直江山城守は、朝日山(旭山)の諏訪平に陣取り、甘粕直江の両隊五千余人の後詰めは甲州軍の攻撃に備えた。

※「甲越信戦録」原文では「直江」となっているが、これは誤りと思われる。

六.謙信引き取りのこと

謙信公につき従った宇野と和田、主君のために殉じる

 一方、信玄公を討ち損じた上杉謙信公は、郎党らとはぐれ、つき従うものはわずかに和田喜兵衛、宇野左馬之介、和田兵部の三名になってしまった。申の下刻(午後五時ころ)、主従四人は千曲の馬場ヶ瀬を渡り、対岸の牧島の川辺に着いた。これを見た武田の軍勢は謙信公とも知らず、敵を逃すまいと大勢で攻め寄せた。宇野、和田の両人は川端に踏みとどまり、敵と戦ったが、和田兵部はついに討ち死にする。

 宇野は大太刀を振り回して敵十三騎を討ち取り、七騎に手傷を負わせたが、自身は十か所の重傷を受けてしまった。これでは御大将の足手まといと、川に飛び込んで自害した。

 対岸でこれを見ていた謙信公は、二人の最期を深く嘆いてその場を立ち去りかねていた。和田喜兵衛がただ一人お供をしていたが、「家臣が、主君の御ために討ち死にするのは常の習い。二人の忠死を無になされるな。早くこの場を立ち退きなされ」といさめたので、謙信公は後ろ髪を引かれる思いで、その場を立ち去った。

謙信公、落人狩りの野武士に狙われる

 謙信公と和田喜兵衛が川田(長野市若穂川田)にさしかかったところ、野武士たちが合戦に破れた落人(おちうど)を討ち取り手柄にしようと待ち構えていた。そこで二人はやむを得ず、保科(長野市若穂保科)の山路を通り、馬曲(まぐせ・下高井郡木島平村か?実際の地理関係を考えると無理があり、場所不明)に出て、一夜を大木の下で明かした。

 翌日は夜になるのを待ってここを発ち、高井野里(上高井郡高山村)で人家に立ち寄り食事を請い、山田(上高井郡高山村山田温泉)越えをして、間山(下高井郡山ノ内町間山)より、ようやく更科(中野市更科)に着いたところで、野武士が三十人ばかり、二人の行く手をさえぎった。しかし、謙信公は剣の使い手、たちどころに六、七人を切り捨て、和田も果敢に戦う。二人の太刀さばきに野武士どもは恐れをなして逃げ散った。

 この時、一人の白髪の老人が現れて「これより先は私めがご案内いたしましょう」と先に立ち、高梨山(高社山/中野市)を左に見て、犬首(飯盛山/下高井郡山ノ内町夜間瀬)の間より須賀川(すがかわ)、女樽・男樽の滝(樽滝/下高井郡木島平村)で肝を冷やし、下木島(飯山市下木島)にようやく出ることができた。老人は「これから先は小菅権現(小菅神社・飯山市瑞穂)の守護がきっとおありでしょう。追っ手が来たら、小菅山(飯山市瑞穂)に逃げ込んだと欺きなさるがよい」と言い残して、かき消すように姿は消えた。

 主従は「これぞ小菅権現の化身であろう」と、老人の消えた後に向かって伏し拝み、安田の渡し(飯山市安田)を渡られた。この時和田は、船頭に、「後より落人狩りの追っ手が来たら小菅山へ行ったと欺いてもらいたい」と言い含めて渡った。分別のある和田は、「災いは下より起こる。下郎というものは心変わりがしやすものよ」と渡し場に戻って水面に張った大綱を切り落とし、船の往来ができぬようにした。これより飯山への入り口、安田の渡しを「綱切の渡」と名づけた。

小菅権現のお導きで難を逃れた謙信公

 謙信公主従の威に恐れて逃げ去った野武士たちであったが、今度は仲間を集めて追いかけてきた。しかし川面に張られた綱は切れ、千曲川を渡ることができない。船頭を脅かし二人の行方を問いつめると、船頭は和田に言われた通り、「先ほど鎧武者両人が小菅の方へ参られた」と答える。野武士たちは小菅に向かい、麓のお堂に火を放ち、飛び出すところを捕らえようと弓鉄砲で待ち構えた。しかし二人がいないことがわかると、次から次へと麓の院に火をかけ、伽藍を残らず焼き払ってしまった。さらに頂上の小菅大権現の三堂に出て手当たり次第、槍や長刀を振り立て、いたるところを突き破って二人を捜し回ったが、どこにも見あたらない。

 こうなってはここを焼き払ってしまえと火をかけようとした時、急に山鳴りがして大石が転げ落ち、大木が倒れ、野武士たちはその下敷きになって数多くの者が死んだ。野武士たちは、これは権現様のたたりに違いあるまいと恐れをなして逃げ散った。

 この後、謙信公は小菅権現の神力の加護をお受けになられたので、春日山に一社を建て、のち上杉公の城下、奥州米沢にも小菅権現を勧請し、鎮守として崇拝されておられるという。

謙信公、富倉峠を越え、辛苦の末に春日山へ帰城す

 謙信公はそれから笹川村(飯山市笹川)までたどり着いたころには、主従ともども飢えに疲れ果てていたので、人家に立ち寄り、食事を請うた。しかし、老人が一人出て来て「ご覧の通りの貧しい家、差し上げるものがございませぬ」と言うので、「ならば、越後への道案内を」と和田は頼んだ。老人の案内で富倉峠に向かうが、つづら折りの壁を登るような難所で、二人はすっかり疲れてしまった。しばらく石に腰掛けて休んでいると、謙信公を見知った者たちであろうか、二人の旅人が笠を取り、礼をして通り過ぎる。和田は刀を抜いて走り寄り、二人を切り伏せた。

 謙信公は「なんとしたことか、罪なき者を殺すとは」と叱責すると、和田は「追っ手の者どもに我らのことを話されたら一大事。気の毒とは存じながらも切り伏せた次第」と言いながら、二人の旅人の腰につけた弁当を奪い取り、どうにか空腹をいやした。道案内の老人は自分も殺されるのはないかと恐れたが、謙信公は「よくぞここまで案内してくれた。これより先は我らだけで大丈夫」と礼を述べ、笄(こうがい)を与え、老人を帰した。

 こうして自領に入り、辛労の末、ようやく越後春日山城に帰還された。和田喜兵衛はそのまま吐血し、謙信公自らの看病の甲斐もなく亡くなった。謙信公は喜兵衛の遺児に父親の倍の知行地を与え、その忠節に報いた。

七.直江、甘粕引き取りのこと

激戦後も三日間、武田軍の追撃に備えた直江・甘粕隊

 直江山城守謙信公が無事ご帰城されたと伝え聞き、安心した。甘粕近江守は敗軍を集めて犀川の岸、市村に踏みとどまったので、直江はともに後詰めをしようと陣を張っていた。直江が陣したところは朝日山(旭山)の麓、諏訪平という。裾花川の前にあたる所(長野商業高校付近)である。

 直江甘粕が市村に残っていると聞いて、高坂弾正信玄公に、「甘粕近江守、未だ犀川辺りに残っております。某(それがし)、これから出撃して一戦しようと存じます」と願い出たが、信玄公は、「このような敗戦の状況にありながら、三日間も踏みとどまって備えるとは、あっぱれの勇士である。その上、直江が後詰めに控えているとなれば、そのままに捨て置くのがよかろう」と仰せられた。その三日後、直江甘粕両将は諸兵を率いて越後に引き揚げた。

八.川中島の戦終わる

武田軍、勝ち鬨をあげ、八幡原の戦いは終結。
両軍の犠牲者は未曾有の数となる

 信玄公御父子ともに負傷されたが、八幡原に再び御陣を張られ、諸将が参上して「この度の合戦は味方のご勝利でございます。お勝ち鬨(かちどき)のご宣言をなされますよう」と申し上げた。

青木神社(陣場河原八幡宮)跡

 この勧めによって辺りを塩水で清め、灯明を備え、軍神の祭を執り行った。信玄公は南方に向かって、「勝軍地蔵大菩薩・勝敵毘沙門天」と唱え、その後、摩利支天の陀羅尼(だらに)三辺、続いて「天下泰平、国土安穏、万民安全、怨敵退散」と声高々に唱え、全将兵いっせいに勝ち鬨を上げた。

 この合戦で越後方の討ち死には、三千四百七十余人、甲州方の討ち死には、四千六百三十余人であった。

 永禄四年(1561)九月十日の川中島の戦いは、ただ一日の激戦であったにもかかわらず、戦死者総数は八千人余り。そのため、将兵の流した血潮で千曲川、犀川の水は三日間も紅に染まり、流れは洋々としていても深い谷間の霧を映すことはなかった。秋露を帯びた草の上に死体が山のように野積みされ、腐乱した死体の放つ臭気は鼻を押し通した。

足利将軍の調停により、
武田・上杉両家は和睦し、川中島合戦の幕が下りる

 天文十六年(1547)より始まった甲越の合戦は、この後も止むことなく続けられたが、永禄七年(1564)七月、京都の将軍足利義輝公より、武田・上杉両家に和睦の上使が来て、上意を述べた。

 この時、武田一門、並びに家老の面々は、信玄公をいさめて、「これまでの争いはともに互角です。将兵たちはもはや疲労困憊に達し、その上、討ち死にした者の数は莫大です。今こそ将軍の仲裁を機会に、和睦なされるのがよろしいでしょう。信州の四郡(埴科・更級・高井・水内)の内、二郡を返せば、上杉方の怒りも治まり、村上義清殿が帰国されれば、波風はないと存じます。ぜひご英断ください」と申し上げた。

 信玄公は、民の嘆きに心寄せるとともに、将軍の上意でもあるので、家臣たちの勧めを受け入れた。そして、海津城は惜しいので、埴科郡は矢代(屋代)より上を村上に返し、更級郡は一円、武田領とすべきことを条件に和睦に応じることにした。

 和睦の使者が越後に着くと、謙信公のお悦びようはこの上なく、村上義清殿も天にも昇る心地で、大いに悦びなさったという。十八年目にして誠の和睦調い、初めて川中島四郡の民百姓たちは、心より安堵したのであった。

九.村上義清殿のこと

村上義清、信州に帰国す

 村上義清殿は、永禄四年(1561)の戦いでも甲州勢に大敗し、越後に帰った。その後、永禄七年(1564)に和睦となり、ようやく信州に帰国することができたが、元亀元年(1570)正月十日に亡くなった。戒名は、日龍寺殿春芳義清大禅定門。廟所は埴科郡坂木村(埴科郡坂城町)で、曹洞宗満泉寺にご位牌がある。

※[補足]村上義清は天文二十二年(1553)に葛尾城が落城してから以後は信州坂木に帰郷することなく、元亀四年(天正元年・1573)一月十日、越後国根知(新潟県糸魚川市根知)において病死、享年七十三歳。義清の宿敵であった武田信玄公も、三河出陣中に持病の労咳(ろうがい。肺結核の漢方名)が重くなり、帰国の途中、義清の後を追うように、同年四月十二日、伊那郡駒場(下伊那郡阿智村駒場)で病死した。享年五十三歳であった。