川中島の戦い・主要人物

武田典厩信繁(たけだ・てんきゅう・のぶしげ)

[大永5年(1525)~永禄4年(1561)]
武田信繁、左馬助
※武田二十四将の一人でもある。
武田の副大将として兄・信玄を支え続けた稀代の名将

武田信虎の次男で信玄の実弟。母は大井(おおい)夫人。幼名次郎、元服して左馬助信繁[さまのすけのぶしげ]と名のる。典厩[てんきゅう]とは左馬助の唐(中国)名。

父信虎は信玄よりも信繁を寵愛し跡目相続にと考えていたという。晴信(信玄)による信虎追放後は兄の臣下となり、副大将として兄を支え続けた。文武両道に優れ、誠実な人柄で家臣からの人望も篤く、たぐいまれなる名将と後世に讃えられた。嫡男・信豊[のぶとよ]に伝えた九十九ヵ条の教訓「信玄家法」は、江戸時代の武士教育にも影響を与えたといわれる。

川中島の激戦で兄を守り討ち死に、ゆかりの典厩寺に眠る

永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、鶴翼[かくよく]の陣の左翼隊を率い、大乱戦の中で討ち果てた。『甲越信戦録』によると、信玄本陣に押し寄せる上杉勢に武田劣勢とみた信繁は、兄の身を案じて、「私が敵の攻撃を防いでいる間に、勝つ算段を考えてくださるように」と使いを送った。そして自分の黒髪と母衣[ほろ]を形見として息子・信豊[のぶとよ]に手渡すようにと家臣に託し、「われこそは信玄の弟、武田左馬之助信繁なり!われと思わん者はこの首をとれ!」と大音声をあげ、敵中に突入し奮戦、最期は鉄砲で撃たれ、宇佐神駿河守定行[うさみするがのかみさだゆき]の槍に突かれて討ち死にしてしまう。

信繁の遺体は水沢の地に埋葬され、のちに初代松代藩主・真田信之[さなだ・のぶゆき]が信繁の菩提を弔ったという典厩寺[てんきゅうじ]にその墓はある。

武田刑部少輔信廉(たけだ・ぎょうぶのしょうゆう・のぶかど)

[1525、1528、1532年等諸説あり~天正10年(1582)]
武田信廉・逍遙軒信綱
※武田二十四将の一人でもある。
兄・信玄を支え続けた武田親族衆の筆頭。 戦国期屈指の武人画家としても知られる

武田信虎の三男で、信玄信繁の同母弟。幼名孫六、のち逍遙軒信綱(しゅようけんのぶつな)と号した。親族衆の筆頭として信玄本陣を固め、情報戦略の面でも力を発揮し、兄・信玄を補佐した。永禄4年(1561)の川中島の戦い、天正3年(1575)長篠の合戦にも参陣し、勝頼が躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]に入ると伊那高遠城の守将をつとめた。天正10年(1582年)織田軍の甲斐攻めで伊那を追われて甲斐に退却するが、捕らえられ古府中で処刑された。

信廉は戦国期屈指の武人画家としても有名で、父・信虎と母・大井夫人を描いた画像は、現在国の重要文化財となっている。

信玄の影武者ともいわれる人物

風貌が酷似していたことから、信玄の影武者をつとめた人物といわれている。第4次川中島の戦いでも信玄の影武者を演じ、また、信玄が伊那駒場で没したときも、兄になりすまして甲府に軍を戻すことに成功させたというエピソードがある。

『甲越信戦録』によると、第4次川中島の戦いで上杉謙信が信玄の本陣に斬り込む際、間者を放ち、信玄の居所を探らせた。信玄本陣に見事入り込んだ間者たちは、大将然とした法師姿の武者が二人並んでいるのを見て、どちらが信玄か見極められなかった。その時、太郎義信(信玄の息子)の苦戦の報を受けた一方の武者が「我に構わず太郎を救え」と叫んだ。間者らはその声を発した武者が信玄だと見届け旗を振り、謙信はその合図の旗をめざして一騎討ちに挑んだ。この時のもう一人の法師姿の武者が、実は逍遙軒信綱(信廉)であったという。

高坂弾正忠昌信(こうさか・だんじょうのじょう※まさのぶ)

[大永7年(1527)~天正6年(1578)]
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。
高坂(香坂)弾正・昌信・昌宣、春日源助・源五郎・虎綱
※武田二十四将の一人でもある。
川中島合戦後も海津城将として北信濃統治を任された智将

信玄勝頼に仕えた武田軍きっての智将。「武田四名臣」の一人。北信濃の名族高坂氏を継ぐが、のち、もとの春日姓にあらため、春日虎綱[かすが・とらつな]と名のる。

石和の豪農・春日大隅の子で、当初は春日源助、源五郎と名のっていた。美少年でもあったといわれ、信玄の近習[きんじゅ]として寵愛を受け、天文21年(1552)に小姓[こしょう]から150騎の侍大将に抜擢された。山本勘助の縄張り(築城)による小諸城の城代を務めたのち、北信濃攻略の重要拠点となる海津城を守った。第4次川中島の戦いでは、妻女山[さいじょざん]の上杉軍本陣へと向かった啄木鳥[きつつき]隊を指揮。合戦後は敵味方の区別なく死者を弔い、義をもって戦後処理にあたったという。勝頼が織田・徳川の連合軍に大敗した天正3年(1575)長篠の合戦には参戦せず、海津城主として上杉勢に備えた。

天正6年(1578)、海津城内において52歳で病没。亡骸は遺命により、明徳寺[めいとくじ]に葬られた。

慎重な戦運びからついた“逃げ弾正”の異名。鋭い眼力は勘助を圧倒する

高坂弾正は、冷静沈着で温厚な性格だったといわれ、あらゆる情報を集めて戦況を分析し、無理な戦いをしない慎重さから“逃げ弾正”とも呼ばれた。信玄が徳川家康を破った三方ヶ原[みかたがはら]の戦いでも、敗走する徳川軍の追撃を無益であると宿将のなかでただ一人反対したという。民政にも長じ、川中島合戦後も北信濃の経営に力を注いだ。

ちなみに『風林火山』の物語の中では、信玄は難しい戦が予想されると「八分の信頼と二分の軽蔑感」をもって高坂(昌信)を赴かせ、「合戦さえあてがっておけばそれで十分満足」する若き武人として登場する。山本勘助が川中島に海津城を築城するにあたり、尼巌城の高坂昌信は勘助のよき相談役となって助言し、対上杉戦での武田の弱点も指摘。その鋭い眼力に、勘助は軍師としての自分の衰えを思い知らされ、物語は終章の川中島の戦いへと向かう。

馬場美濃守信房(信春)(ばば・みののかみ・のぶふさ/のぶはる)

[永正11年(1514)?~天正3年(1575)]
馬場信房・信春・信政・氏勝・民部少輔、教来石景政
※武田二十四将の一人でもある。
40余年の戦歴にかすり傷一つなし、器量も深い知勇兼備の剛将

信虎信玄勝頼三代に仕えた譜代の重臣。「武田四名臣」の一人。
甲斐の教来石を領し、教来石景政(信房)[きょうらいしかげまさ/のぶふさ]と名乗っていたが、跡目の絶えていた武田重臣・馬場姓を継ぐとともに民部少輔[みんぶのしょうゆう]に任じられた。のち豪傑と謳われた原美濃守虎胤[はらみののかみとらたね]の美濃守称を許され、馬場美濃守信房(のち信春)と改名した。

戦の巧さには定評があり、諏訪、佐久の信濃攻略で数々の功名を成す。40余年の戦歴に擦り傷一つ受けたことがないという猛者で、度量が深く、知謀に優れ、信玄はもとより諸将・雑兵までが揺るぎない信頼を寄せる器量人であった。

深志城、牧之島城の城将を歴任、築城の巧さは勘助ゆずり

天文19年(1550)筑摩郡深志城[ふかしじょう](現松本城)の城将を務め、弘治3年(1557)には落合氏が籠もる葛山城を落とし、武田の善光寺平掌握の中核として活躍する。第4次川中島の戦いでは、対陣する上杉軍との一戦をどうするか、信玄は山本勘助を召しだし、馬場信房とともに評議させた。結果、勘助の啄木鳥(きつつき)の戦法により、信房は本陣・妻女山[さいじょざん]攻撃隊を率いた。合戦後の永禄5年(1562)、越後上杉の防御として牧之島城[まきのしまじょう](現信州新町)を築き、城将として北信濃の抑えを固めた。甲州流の築城の名手とされ、山本勘助の継承者とされる。

勝頼の代には譜代家老衆の筆頭格として活躍した。天正3年(1575)長篠の合戦では、敗走する勝頼軍の殿[しんがり]をつとめ戦死。その比類ない働きは敵の織田方も称讃したという。

内藤修理亮昌豊(ないとう・しゅりのすけ・まさとよ)

[大永3年(1523)?~天正3年(1575)]
内藤昌豊・昌秀・修理亮
※武田二十四将の一人でもある。
功名よりも武田全軍のために忠義を尽くした“甲斐の副将”格

信玄勝頼の二代に仕えた重臣。永禄4年(1561)、川中島で討ち死にした信玄の弟・典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)亡き後、甲斐の副将格と目された。「武田四名臣」の一人。

初名は工藤源左衛門尉祐長[くどうげんざえもんのじょうすけなが]。信虎の老臣であった父親が手討ちになり国外追放の身となるが、のち晴信(信玄)に呼び戻されて旧領を復活、やがて50騎の侍大将に抜擢され、内藤家を継承した。

武略に優れ、思慮深い人物といわれる。多数の大将首をとったが、「合戦での勝利が第一、いたずらに大将首を取るなど小さい事」と大局的見地に立ち武田軍の統率に心を砕いた。第4次川中島合戦では、旗本陣の右翼を担って死守。その後、筑摩郡深志城、西上野の箕輪城城代を務める。天正3年(1575)、長篠の合戦にて戦死。

山県三郎兵衛尉昌景(やまがた・さぶろう・ひょうえのじょう・まさかげ)

[享禄3年(1530)?~天正3年(1575)]
山県昌景・山形昌景・飯富源四郎
※武田二十四将の一人でもある。
「職」の座につき信玄の補佐役として活躍、三方ヶ原の戦いで徳川家康をも怖れさせた猛将

「武田四名臣」の一人。譜代家老衆として信玄・勝頼の二代に仕えた。飯富虎昌[おぶ・とらまさ]の実弟で飯富源四郎[おぶ・げんしろう]といった。信玄の近習小姓から伊那攻めにて初陣。のち侍大将に抜擢されて、板垣信方[いたがき・のぶかた]、甘利虎泰[あまり・とらやす]亡きあとの最高指揮官「職[しき]」をつとめ、信玄を補佐した。信玄の嫡子義信が謀反の罪で幽閉された事件で兄虎昌が誅された後、山県姓を名のる。

短期間で城を攻略することを得意とし、敵を恐れぬ猛将であったといわれる。元亀3年(1572)三方ヶ原[みかたがはら]の合戦では、徳川本陣に正面から攻撃し、「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ」と家康に言わしめた。天正3年(1575)、長篠の合戦にて、鉄砲の玉を受けても落馬せず、采配を口にくわえたまま戦死したという。

『甲越信戦録』に描かれた勇士

第4次川中島合戦では、本隊鶴翼[かくよく]の陣の左翼を守り、『甲越信戦録』にも、乱戦で、「四尺三寸の大太刀真っ甲に差しかざし……真っ向縦割り、輪切り、縦切り、膝折、腰車と切り伏せ、切り伏せる」と山県昌景の勇士ぶりを描く。続けて、敵に取り囲まれた武田太郎義信に気づいた昌景は、ちょうどそのとき相対していた上杉軍の鬼小島弥太郎[おに・こじま・やたろう]に「主君のため、この勝負、待ってくれぬか」と頼みこみ、義信の難を救った。そこで昌景は「鬼とはだれが名づけたことぞ」と弥太郎の忠義精神を讃えるシーンが綴られている。

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板垣駿河守信方(いたがき・するがのかみ・のぶかた)

[生年不詳~天文17年(1548)]
板垣信方・信形
※武田二十四将の一人でもある。
晴信(信玄)の守り役をつとめた宿将。信虎追放の中心的役割をなす

信虎信玄の2代に仕えた宿将。駿河守を称した。板垣氏は、武田氏の祖・武田信義[たけだ・のぶよし]の次男・板垣三郎兼信[いたがき・さぶろう・かねのぶ]を祖とする名門甲斐源氏の流れをくむ。御親族衆として信虎の代から家中の重臣として活躍。晴信(信玄)の守り役をつとめたといわれ、一時若い晴信が遊事にふけった際には、自ら詩作を習いそれを諫めた。天文10年(1541)、信虎追放時には、晴信の苦渋を理解し、中心的な役割を演じた。

その後も晴信から全幅の信頼を受け、甘利虎泰[あまり・とらやす]とともに最高職「職[しき]」の地位を得、軍政・民政の中枢を担った。天文12年(1543)、攻略した諏訪氏の上原城に入り、郡代として諏訪・伊那地方を統治。また上杉憲政が送り込んだ関東管領軍を佐久の小田井原で撃破するなど、信濃攻略の主力として活躍した。

山本勘助の仕官に尽力し、由布姫・勝頼の後ろ盾となるが、上田原の合戦で討ち死に

『甲越信戦録』には「邪なことが嫌いな廉直義節の勇士」で、義に外れた者は成敗するので憎む人間も多かった。信方をそれゆえに信頼する晴信は、その高邁さを案じたという。天文17年(1548)村上義清との上田原の合戦で先鋒をつとめ奮迅の末、討ち死にした。

板垣信方は、家中の反対する中、山本勘助の才幹を見込み、晴信に推挙した人物とされる。『風林火山』の物語によると、「武田一の合戦上手」だが「苦戦になると弱い」と勘助は信方を評するが、家中に心許せる者が少ない勘助と由布姫にとっては、唯一後ろ盾となってくれる頼もしい武将であった。

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甘利備前守虎泰(あまり・びぜんのかみ・とらやす)

[生年不詳~天文17年(1548)]
甘利虎泰
※武田二十四将の一人でもある。
板垣信方と並ぶ信虎時代からの重臣。戦わずして敵が逃げ出す甘利隊を率いる

信虎信玄の二代にわたり仕えた屈指の宿老。板垣信方同様、信玄の重臣で最高指揮官「職[しき]」として活躍した。甘利家は、武田氏の始祖信義の子一条忠頼の末裔で、甲斐源氏一門の名族。

虎泰は信虎の初陣から側近として従い、内乱の甲斐国統一にも大きく貢献した。信虎追放のクーデターでは板垣信方らと組んで晴信(信玄)擁立をはかった。軍略家として抜きんでた才を発揮し、青年時代の信玄には合戦の駆け引きを教えたという。侍大将として常に先陣をつとめ、その凄まじさから戦わずして敵が逃げ出すといわれる甘利隊を率いて、豪傑の名をほしいままにした。天文17年(1548)村上義清との上田原の合戦で討ち死に。

『風林火山』の物語中、山本勘助が初めて武田家中の重臣たちと対面した時、「こいつ一人が厭な奴」として二人の軋轢を強調している。ちなみに虎泰の跡を受け継いだ息子の昌忠[まさただ](清晴とも)も、父に劣らぬ勇将だったが、家臣思いで部下から深く慕われたという。昌忠は第4次川中島の戦いで、高坂弾正忠昌信飯富虎昌真田幸隆らとともに妻女山攻撃の啄木鳥[きつつき]隊を率いた。

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飯富兵部少輔虎昌(おぶ・ひょうぶしょうゆう・とらまさ)

[永正15年(1518)~永禄8年(1565)]
飯富虎昌
※武田二十四将の一人でもある。
“飯富の赤備え”隊を率いて敵陣を圧倒した甲山の猛虎

信虎晴信の二代に仕えた武田家の譜代の重臣。甲斐源氏の流れを汲み、武田の族臣とされる。
信虎追放の国主交代事件では、板垣信方[いたがき・のぶかた]、甘利虎泰[あまり・とらやす]らの重臣とともに晴信(信玄)を擁立。合戦では常に先陣をつとめ、信濃侵攻で小笠原長時、村上義清を苦しめ、「甲山の猛虎」と恐れられた。虎昌の隊は赤一色の軍容(装備)で火のように敵を圧倒したことから「飯富の赤備え」といわれ、後年、これにならい徳川家康は井伊直政[いい・なおまさ]による赤備え隊を作ったという。

信玄の嫡子(正室三条[さんじょう]夫人との子)義信[よしのぶ]の守り役で、永禄8年(1565)、義信謀反クーデターの主謀者とされ自害した。

永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、茶臼山から海津城に入った信玄に、「上杉に恐れをなしていると嘲けられるのは残念」と馬場信房[ばばのぶふさ]とともに早めの合戦開始を訴え、9月9日、高坂弾正忠昌信真田幸隆らとともに妻女山攻撃の啄木鳥[きつつき]部隊を率いた。

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真田弾正忠幸隆(さなだ・だんじょうのじょう※・ゆきたか)

[永正10年(1513)~天正2年(1574)]
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。
真田幸隆・幸綱・一徳斎
※武田二十四将の一人でもある。
武田きっての知将、信玄の信濃攻略に大きな功績を残す

真田氏は、東信濃に勢力を張った滋野[しげの]一族・海野[うんの]氏の流れをくむ豪族。幸隆は松尾城主・真田頼昌[さなだ・よりまさ]の子で、海野棟綱[うんの・むねつな]の孫にあたるといわれる。

天文10年(1541)、真田父子は海野一族とともに戦った海野平合戦で、武田信虎・村上義清[むらかみ・よしきよ]・諏訪頼重[すわ・よりしげ]らの連合軍に東信濃を追われ、上州の箕輪城主・長野業政[ながの・なりまさ]のもとに身を寄せた。

やがて晴信(信玄)が甲斐の領主になると、幸隆は武田に出仕。信玄に臣従後は信濃先方衆の筆頭格として信濃攻略の尖兵を担う。内部工作のよる謀略戦に抜きんでた才を発揮し、佐久攻めでは望月一族を帰服、さらには難攻不落とされた村上義清の砥石城[といしじょう]を一晩で乗っ取るなど、武田の知将の名をほしいままにした。

上田原の戦い、砥石崩れで、無敵を誇る武田軍を二度も破った村上義清であったが、幸隆の砥石城乗っ取りに「武田に戦いで勝ちながら、謀略に負けた」と口惜しがったという。

昌幸・幸村・信之……真田一族中興の祖

本領真田郷を取り戻した幸隆は、弘治2年(1556)、川中島平の掌握をはやる信玄の督促に応じ、東条[ひがしじょう]氏の尼巌城[あまかざりじょう]を見事攻略。北信濃進出の重要な布石をなした。またこの頃には、幸隆は信玄、山本勘助とともに出家し、「一徳斎[いっとくさい]」と号するようになる。

第4次川中島の戦いでは、嫡子・信綱[のぶつな]とともに出陣し、高坂弾正忠昌信飯富虎昌らとともに妻女山攻撃の啄木鳥[きつつき]部隊を率いた。川中島平定後は、上野国岩櫃城[いわびつじょう]を攻略し、城代となって対上杉・上州攻略の中核任務を担った。天正2年(1574)、信玄の後を追うようにして病没。享年62歳。

子の信綱、昌輝[まさてる]とも武田勝頼にも仕えたが、長篠の戦い(1575)で戦死。真田家は昌幸[まさゆき]が継ぎ、幸村[ゆきむら]と信之[のぶゆき]に受け継がれる。上田市真田の長谷寺[ちょうこくじ]には幸隆夫妻と昌幸の墓が建ち、長野市松代の長国寺[ちょうこくじ]にも幸隆ら真田一族の供養塔が建っている。

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諸角豊後守虎定(もろずみ・ぶんごのかみ・とらさだ)

[生年不詳~永禄4年(1561)]
諸角(両角・室住・諸住)虎定・昌清・豊後守
信虎の代から武田に仕えた最古参の重臣

信虎晴信の二代に仕え武田家譜代の重臣。諸角[もろずみ]は、両角・室住・諸住とも記し、虎定は昌清[まさきよ]ともいう。信玄の曽祖父・信昌[のぶまさ]の六男といわれる。別説には父の代に信州諏訪から甲府に移住してきたともされる。信虎の代から数多くの合戦に出陣して武勲をあげ、信玄の代では最古参にあたる武将であった。

81歳の高齢で川中島に参戦。地元では「もろずみさん」の愛称で親しまれる

永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、81歳の高齢にもかかわらずに参戦。内藤修理亮昌豊[ないとうしゅりのすけまさとよ]とともに鶴翼[かくよく]の陣の右翼を守っていたが、乱戦状態となって本陣を死守しているうちに、信玄の弟で副将の典厩信繁[てんきゅうのぶしげ]が戦死を遂げた。これを知った虎定は、激怒のあまりわずかな手勢で敵陣に突入し、白髪頭を振り乱し奮戦するが、上杉軍に首を討ち取られてしまう。虎定の首は同心によって奪い戻され、のち戦死した場所に葬られたという。

老いの身を顧みず忠義を尽くして散った老将の墓は、現在長野市稲里町下氷飽(しもひがの)に建ち、地元の人々から「もろずみさん」の愛称で親しまれている。

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小山田出羽守信有(おやまだ・でわのかみ・のぶあり)

[永正16年(1519)?-天文21年(1552)]
小山田信有、桃隠、左兵衛尉、藤丸
武田家との同盟者、郡内・小山田家の当主。信濃侵攻の尖兵として多くの武功をあげる

信虎信玄の2代に仕えた武田の重臣。甲斐の郡内[ぐんない]地方(山梨県東部)を領有していた小山田家16代当主にあたる。父の越中守信有[えっちゅうのかみのぶあり]は信虎に降り、以後小山田家は武田氏の同盟者・一門衆となる。

信有は知勇に優れ、参謀としても力を発揮。郡内勢が得意とする投石隊を指揮していたといわれる。天文11年(1542)の諏訪攻略にはじまり、伊那、佐久へと展開する晴信の信濃侵攻には尖兵となって活躍した。

武田軍の残虐劇として伝わる佐久の志賀城攻めでも信有は戦功を立て、志賀城主・笠原氏の夫人を引き取り側室とした。天文17年(1548)上田原の戦いでは、信玄の側近として奮戦し、その後、佐久の牙城・田口城[たぐちじょう]を攻略。上田原の武田軍敗戦によって力を盛り返した佐久勢の鎮圧に成功する。天文19年(1550)、堅塁を誇る村上義清の砥石城[といしじょう]合戦で援護の鉄砲隊を指揮した信有だったが、苦戦を強いられ、重傷を負う。その傷も癒えぬまま、2年後、天文21年(1552)信有は他界。葬儀には1万人が参列し、郡内一番の弔いとなったと伝えられる。その後、小山田家は長男の信茂[のぶしげ]が跡を継ぐ。

秋山伯耆守信友(あきやま・ほうきのかみ・のぶとも)

[大永7年(1527)?~天正3年(1575)]
秋山信友・春近・晴親
※武田二十四将の一人でもある。
伊那郡代として高遠城・飯田城を守衛

武田氏に仕えた甲斐源氏の一族・秋山氏12代目の当主で、父は新左衛門信任[しんざえもんのぶとう]。天文11年(1542)の諏訪攻めでは初陣を飾り、天文15年(1546)頃には、侍大将となる。外交的手腕に長けていたといわれ、伊那平定後は伊那郡代・高遠城の衛将、飯田城代となって美濃の織田信長に備えた。

西上作戦の別働隊長となって岩村城を攻略し、信長の叔母を妻に迎える

元亀3年(1572)信友は、信玄の上洛軍の別働隊を率いて東美濃に侵攻し、岩村[いわむら]城(岐阜県恵那市岩村町)を攻略。織田信長の叔母(遠山氏)を妻にして、城主となる。

天正3年(1575)、長篠の戦いで勝頼が敗れると、信友は織田軍に降伏。信長は信友を許さず、家臣と叔母である遠山氏もろとも長良川の河原で磔刑[たくけい、たっけい](はりつけ)に処した。なお、川中島の戦いでは、信友は織田軍の牽制のため参戦はしていない。

穴山玄蕃頭信君(あなやま・げんばのかみ・のぶきみ)

[天文10年(1541)~天正10年(1582)]
穴山梅雪・信君・信良・左衛門大夫・伊豆守・陸奥守・梅雪斎不白
※武田二十四将の一人でもある。
信玄の姉を母に、妹を妻にもつ武田親族衆の筆頭

穴山伊豆守信友[あなやまいずのかみのぶとも]の嫡男。穴山氏は、武田と同じ甲斐源氏の流れをくみ、武田宗家の族臣として逸見筋[へみすじ]穴山(山梨県韮崎市)の地を領し、穴山氏を称したのが始まりという。

母親は信玄の姉・南松院[なんしょういん]、妻は信玄の次女・見性院[けんしょういん]。信玄にとっては血のつながる甥にあたる。信玄・勝頼の2代にわたって仕え、親族衆筆頭として軍事・外交にわたり武田家の中枢をなした。川中島の戦い、三方ヶ原の戦い(元亀3年/1572)、長篠の戦い(天正3年/1575)などに参陣し、主に本陣の守衛を担った。

武田家再興のため、勝頼を見かぎり“裏切り者”の烙印を甘んじた

駿河進出では、天正3年(1575)長篠の戦いで戦死した山県昌景[やまがたまさかげ]の後を受けて、江尻[えじり]城(静岡県静岡市清水区)城将となり、東の北条氏、西の徳川氏に備えた。

天正10年(1582)武田家滅亡時には、義兄弟である勝頼の戦列から離れて、江尻城にて徳川・織田両氏との外交に務めるが、最後は徳川家康に降った。この離反は、武田家の血筋を残し、再興を図るための決断だったともいわれる。しかし、同年6月、本能寺の変の混乱により浜松へ帰国途中、一揆の一団によって横死した。享年42歳。風趣を好み、学識も深い武人だったといわれる。

小幡上総介信貞(おばた・かずさのすけ・のぶさだ)

[天文9年(1540)?~天正19年(1591)?]
小幡(小畑・尾畑)信貞・信定・信実・信真・右衛門尉・尾張守・上総介・兵衛尉
※武田二十四将の一人でもある。
武田軍団の中で最大の部隊を誇った上州の朱武者

父・尾張守憲重[おわりのかみのりしげ](重貞とも)は、上野国小幡(群馬県甘楽郡甘楽町小幡)の国峰[くにみね]城を本拠とする有力国人といわれる。夫人は箕輪[みのわ]城主(群馬県高崎市箕輪町)・長野業政[ながの・なりまさ]の娘。関東管領上杉憲政[うえすぎ・のりまさ]が越後に逃れた後、憲重・信貞父子は身内の謀反により本領を追われ、天文22年(1553)武田晴信(信玄)の幕下に加わった。

信貞は、西上野先方衆として武勇をはせ、永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、妻女山攻撃隊(啄木鳥[きつつき]隊)の一隊として参戦。戦後、武田軍の上野侵攻により旧領を回復し、箕輪城、駿河・小田原攻め(永禄12年/1569)、三方ヶ原の戦い(元亀3年/1572)を転戦し、勝頼の代には長篠の戦い(天正3年/1575)で善戦した。『甲陽軍鑑』によると、憲重・信貞率いる小幡氏一党の部隊は常に500の騎馬隊を従え、その数は武田家中最大を誇った。赤漆の鎧を身にまとった軍装で勇猛果敢に戦い、敵将からは「上州の朱武者」として恐れられたという。

武田家滅亡後、真田氏を頼って上田・塩田平に隠棲

天正10年(1582)武田家滅亡後、織田信長に仕えて本領安堵されるが、本能寺の変(天正10年/1582)後は後北条氏の配下となり、さらに小田原征伐で徳川家康に小幡領を明け渡した後、旧知の真田昌幸を頼って信州塩田平に隠棲。天正19年(1591)同地で没したと伝えられ、別所温泉(上田市)の安楽寺[あんらくじ]には、信貞の墓が建てられている。

遠州(静岡県西部)から来た小幡山城守虎盛[やましろのかみとらもり]とは、別系の小幡氏。永禄9~10年(1566~1567)の「生島足島神社[いくしまたるしまじんじゃ](上田市)起請文[きしょうもん](誓詞)」は、「小幡右衛門尉信実」の名で納められている。また、信貞の養嗣子(弟・信高の次男)も「信貞」を名乗った。

小幡山城守虎盛(おばた・やましろのかみ・とらもり)

[延徳3年(1491)?~永禄4年(1561)]
小幡(小畑・尾畑)虎盛・孫十郎・織部・日意
※武田二十四将の一人でもある。
合戦36度、感状36枚、刀傷47カ所、“鬼虎”の異名を持つ足軽大将

父・日浄[にちじょう](盛次)とともに遠州勝間田(静岡県牧之原市)から甲州に来て、武田信虎に仕え、のち足軽大将に抜擢された。はじめ織部、後に山城守を名乗り、信虎から「虎」の一字を受け、虎盛と称した。生涯、合戦に30数度の出陣、体には40数カ所の傷を受け、“鬼虎”の異名で恐れられた。大将として率いる部隊の采配ぶりは定評があり、主君信玄山本勘助も称讃したという。

海津城の副将として川中島を警護

信玄の出家に際しては、原虎胤[はらとらたね]、真田幸隆とともに剃髪入道し、日意[にちい]と号した。高坂弾正忠昌信[こうさかだんじょうのじょうまさのぶ]の副将をつとめ、海津城二曲輪[くるわ]の守衛にあたっていたが、永禄4年(1561)6月、上杉軍との決戦を前に病に倒れ、没した。臨終には「よくみのほどをしれ」の遺言を残し、子孫への戒めにしたという。家督を継いだ嫡男の豊後守昌盛[ぶんごのかみまさもり](又兵衛)は、父親の後継とされた海津城副将を辞退し、第4次川中島の戦い(永禄4年/1561)では旗本衆として本陣の信玄を守った。

西上野先方衆の小幡上総介信貞[かずさのすけのぶさだ]とは別系の小幡氏だが、『甲越信戦録』巻之四の二「小幡家由緒のこと」では、小幡入道日意(山城守虎盛)は上野国に住む「群馬の音人[おとひと]」を先祖とする同族として語られている。

小山田左兵衛尉信茂(おやまだ・さひょうえのじょう・のぶしげ)

[天文8年(1539)?~天正10年(1582)]
小山田信茂・信重・弥三郎・又兵衛尉・越前守・出羽守
※武田二十四将の一人でもある。
何事にも万能の才を発揮し、武田軍最強の部隊を率いた郡内国主

出羽守信有[でわのかみのぶあり]の嫡男。天文21年(1552)信有の死後、弱冠12歳で家督を継いだといわれ、弘治3年(1557)の第3次川中島の戦いで初陣。永禄4年(1561)の激戦では、高坂弾正忠昌信[こうさかだんじょうのじょうまさのぶ]、真田幸隆らとともに妻女山攻撃の啄木鳥[きつつき]隊を率いた。また、永禄12年(1569)の小田原攻めでは北条氏照[ほうじょううじてる]軍を撃破するなど、信茂率いる郡内[ぐんない]勢は武田軍中最強の部隊とうたわれた。山県昌景[やまがたまさかげ]は「若手にては万事相調いたる人よ」と讃えたという。

信玄死後は勝頼を支えたが、天正10年(1582)織田信長の武田攻めに対し、先鋒となって抗戦するも、最後は武田の不利を察し、郡内国主でもあったことから勝頼に見切りをつける。武田家滅亡後、信茂は織田信長に降ったが、その不忠を信長になじられ、同年3月甲府善光寺で誅された。

三枝勘解由左衛門尉守友(さえぐさ・かげゆさえもんのじょう・もりとも)

[天文7年(1538)?~天正3年(1575)]
三枝守友・宗四郎昌貞・勘解由・左衛門尉、山県善右衛門
※武田二十四将の一人でもある。
花沢城攻めで一番槍の功名をあげた若獅子

甲斐源氏の勢力伸長により断絶となった名族三枝[さえぐさ]氏を、武田信虎が同族の石原氏に名跡を継がせた。信虎時代は守綱[もりつな]、信玄には子の虎吉[とらよし]とその嫡男だった守友が仕えた。

守友は元服後、使い番を経て奥近習の一人として信玄に出仕。曾根昌世武藤喜兵衛(真田昌幸)らとともに信玄から特に目をかけられた側近だった。川中島の戦いでは旗本組に属し、永禄7年(1564)頃には侍大将に抜擢されたという。

永禄12年(1569)の小田原攻め・三増[みませ]峠の戦いなどで武勲をたて、永禄13年(1570)の駿河の花沢[はなざわ]城(静岡県焼津市高崎)攻めでは一番槍の功名で感状を受けている。また高天神[たかてんじん]城(静岡県掛川市下土方)の攻略(元亀2年/1571)や、さらに三方ヶ原の戦い(元亀3年/1572)でも獅子奮迅の活躍をみせ、そんな守友をひいきにした山県昌景は、名刀吉光の太刀を授けて山県姓を名乗らせたという。

天正3年(1575)、織田・徳川連合軍との長篠の合戦では、武田信実[たけだのぶざね](信玄の弟・信虎7男)の副将として鳶ヶ巣山[とびがすやま/鳶ノ巣山とも]砦に陣取るが奇襲に遭い、討ち死にした。

曾根下野守昌世(そね・しもつけのかみ・まさただ)

[生年・没年不詳]
曾根(曽根)昌世・昌清・内匠助[たくみのすけ]・孫次郎勝長・右近助
※武田二十四将の一人でもある。
信玄の薫陶を受けた直参の将。主君の一眼となって多方面に奔走

曾根氏は甲斐源氏の一族で、武田氏譜代の重臣。虎長[とらなが]の嫡子とされる昌世は、はじめ信玄の奥近習衆として側に仕え、薫陶を受けながら成長。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは本陣中央を守り、永禄期末には足軽大将に出世した。

情報参謀として国内外の情勢に目を光らせ、また合戦の際は検使[けんし](戦場を視察し確認する役)となって各部隊の戦況を本陣に報告する役目を果たしていたといわれる。武藤喜兵衛(真田昌幸)とともに、信玄に「わが両眼のごとき者」と言わしめ、厚い信望を得ていた。勝頼の代には、駿河の興国寺[こうこくじ]城(静岡県沼津市)の守将となった。

天正10年(1582)武田氏滅亡後、織田・徳川氏に従うが、後に天正18年(1590)、豊臣秀吉による北条氏の小田原攻め後には徳川氏を離れ、会津の蒲生氏郷[がもう・うじさと]に仕えたといわれる。

多田淡路守満頼(ただ・あわじのかみ・みつより)

[文亀元年(1501)?~永禄6年(1563)]
多田淡路守・満頼・三八・昌澄・昌利
※武田二十四将の一人でもある。
夜襲戦の妙手として抜きんでた才を発揮。 火車鬼退治の武勇伝も残る武田きっての強者

多田氏は清和源氏源満仲[みなもとみつなか]の後裔とされる。美濃国(岐阜県南部)出身の満頼は、甲斐に移って信虎に召し抱えられ、足軽大将となって信玄にも仕えた。夜襲戦にかけては右に出る者がいなかったといわれ、『甲陽軍鑑』の中では「多田三八」の名で登場。小荒間の合戦(天文9年/1540)の話には、村上義清方の侍大将清野[きよの]氏率いる3,500の軍勢に夜襲をかけ、村上軍を敗走に追い込み、172の首を討ち取ったことが描かれている。虚空蔵山[こくぞうさん]城(坂城町南条・上田市)の在番中、地獄の妖婆「火車鬼」を退治したという伝説を持ち、合戦数は29回、身に27カ所の刀傷を負い、29通の感状を授かったという豪傑。信虎・信玄が誇る自慢の部下であったといわれる。

永禄4年(1561)第4次川中島の戦いには、嫡男の新蔵[しんぞう](久蔵)が足軽隊を率いて参戦。満頼はその2年後の永禄6年(1563)、病没した。

土屋右衛門尉昌次(つちや・うえもんのじょう・まさつぐ)

[天文14年(1545)?~天正3年(1575)]
土屋昌次・昌続・晴綱・直村・信親、金丸平八郎
※武田二十四将の一人でもある。
武田の領国支配を中心的に支えた青年武将。 起請文のとりまとめ役も担った

甲斐の旧族で、信玄の守り役を務めた金丸筑前守虎義[かなまるちくぜんのかみとらよし]の二男。奥近習の一人として信玄に仕え、永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは初陣を果たし、本陣中央に備えた。上杉軍の攻撃が本陣にまでおよぶ乱戦のなか、信玄の側で奮戦したという。その後、頭角を現し、数多くの戦功により侍大将に抜擢。永禄11年(1568)頃には武田氏の譜代重臣・土屋氏の名跡を継いだと伝えられる。

有力宿老として家臣らの信頼も厚く、永禄9~10年(1566~1567)に信玄が家臣諸将に忠誠を誓わせた「生島足島神社の起請文」の一部取りまとめ役も担った。天正元年(1573)、信玄の訃報に接した昌次は殉死しようとしたが、高坂弾正忠に説得されて思いとどまったというエピソードも残されている。

天正3年(1575)、織田信長との長篠の合戦で、騎馬隊封じの馬防柵(馬止めの柵)を突破しようとして、鉄砲隊の一斉射撃を受け、戦死した。

原美濃守虎胤(はら・みののかみ・とらたね)

[明応6年(1497)?~永禄7年(1564)]
原虎胤・虎種、清岩
※武田二十四将の一人でもある。
後利用を考えた城攻めで、筑摩の要害・平瀬城を攻略

下総千葉氏の一族・原氏の出自で、永正期(1504-1521)に父・能登守友胤[のとのかみともたね]に伴われ、房州臼井(千葉県佐倉市)から甲斐に来て、信虎信玄の2代に仕えた。

信玄が家督を継承した頃、足軽大将となり、板垣信方[いたがきのぶかた]・甘利虎泰[あまりとらやす]・飯富虎昌[おぶとらまさ]氏らとともに武田の中枢を担い、信濃経略の主力として活躍。効率的な城攻めに長け、奪い取った後も補修せずに利用できる攻略法を得意としていた。天文20年(1551)には、信濃守護小笠原長時[おがさわらながとき]の属城だった平瀬[ひらせ]城(松本市島内)を攻略し、城将を務めた。

“甲斐の鬼美濃”と恐れられ、隣国にその名を轟かせた猛将

「10の兵をもって100の敵に当たる」を信条とし、合戦にのぞむこと38回、全身に受けた傷は53ヶ所を数え、隣国に“甲斐の鬼美濃”と恐れられた猛将だが、情けには厚い武人であったという。のちに馬場信春は虎胤の“鬼美濃”の武名にあやかり、「馬場美濃守信春」と称している。

また、『甲陽軍鑑』によると、虎胤は浄土宗と日蓮宗との法論(仏法の教義に関する議論)を禁じた法度(『甲州法度之次第』)を破った罪で、一時は甲州を追放され相模の北条氏に仕えたが、翌年には帰参したエピソードもある。

信玄が出家の際には、山本勘助真田幸隆小幡虎盛とともに剃髪し、清岩[せいがん]と号した。永禄2年(1559)信越国境の割ヶ嶽[わりがたけ]城(上水内郡信濃町)攻略のとき、銃弾を受け負傷。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでも傷が癒えずに出陣できず、永禄7年(1564)に没したという。

甲州系の原隼人佑昌胤[はらはやとのすけまさたね]とは別系の原氏だが、『甲越信戦録』巻之三の六「海野平対陣のこと」および七「原美濃守由緒」には、原美濃守虎胤が「信俊(弥五郎)」の名で登場し、同一門として語られている。

原隼人佑昌胤(はら・はやとのすけ・まさたね)

[大永6年(1526)?~天正3年(1575)]
※生年には所説あり
原隼人・昌胤・正種・昌勝・胤長・昌国・隼人助・隼人佐・隼人正
※武田二十四将の一人でもある。
武田随一の陣取りの巧者。 信玄の側近として様々な重要任務を遂行した譜代家老

武田の譜代家老衆として信虎信玄の2代に仕えた加賀守昌俊[かがのかみまさとし]の嫡子。原氏は、一条庄高畑郷(甲府市高畑)の一帯を領有していたとされる。天文18年(1549)、父・昌俊が死ぬと家督を継ぎ、120騎持ちの侍大将になって隼人佑を称した。親子ともども陣取りの名手であったといわれ、地理に明るく、合戦場となる地勢・地形を見極めて、有利に戦うための場所を探し出す卓越した才能を発揮した。信玄も陣取りの采配を一任し、合戦の際には各部隊の戦況をとりまとめ本陣に報告する陣場奉行を務めたという。

また一方では、西上野国衆ほか他地域の国衆など各所からの要望を信玄や関係役所に取り次ぐ役務「奏者[そうじゃ]」の任にあたったり、治水事業を指揮したり、のちには山県昌景[やまがたまさかげ]とともに最高指揮官「職[しき]」を務めたことなども伝えられ、いずれも武田の参謀として重要な要職についていたと考えられる。ちなみに永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いにも出陣し、信玄本陣の脇備隊左翼を守ったとされている。

信玄の死後は勝頼に仕えるが、天正3年(1575)織田・徳川連合軍との長篠の戦いで左翼山県隊の横に布陣し、銃弾を浴びて戦死する。嫡子・昌栄[まさひで]が家督を継ぎ、天正8年(1580)には末弟貞胤[さだたね]が継承。三代(三人)にわたって原隼人を名乗った。

下総千葉氏一族の“鬼美濃”原美濃守は、別系の原氏。同族には中間頭(ちゅうげんがしら)の原大隅守[はらおおすみのかみ]がいる。

武藤喜兵衛昌幸(むとう・きへえ・まさゆき)

[天文16年(1547)~慶長16年(1611)]
武藤喜兵衛・三郎左衛門尉、真田昌幸・喜兵衛・安房守
※武田二十四将の一人でもある。
信濃先方衆・真田幸隆の三男。 父に勝るとも劣らぬ武略家として名を馳せる

東・北信濃侵攻で砥石[といし]城、尼厳[あまかざり]城を攻略した智将・真田幸隆[さなだゆきたか]の三男。幼名は源五郎。第1次川中島の戦いで村上義清の塩田城を攻略し、東信濃を支配下に治めた天文22年(1553)、父・幸隆が小県[ちいさがた]の旧領に戻る代償として、7歳で武田家の人質となり、信玄の近習として出仕。その後信玄の母方の武藤家に養子に入り、武藤喜兵衛と名乗る。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いで初陣を飾り、以降旗本として活躍する。

信玄の死後、勝頼に仕えるが、天正3年(1575)織田・徳川の連合軍に大敗した長篠の戦いで二人の兄、信綱[のぶつな]・昌輝[まさてる]が戦死し、昌幸が真田家を継いだ。勝頼の信頼も厚く、西上野(群馬県西部)の備えを任されて小県の真田郷に戻り、松尾城・砥石城を拠点に上州(群馬県)経営を担った。父に似て軍略の才に優れ、天正8年(1580)には上野沼田[ぬまた]城(群馬県沼田市)を無血で謀奪し、沼田地域を支配した。

天下の情勢を読み取り、乱世を生き抜いた名族・真田家の意地

天正10年(1582)、武田家滅亡後は、上田城(上田市)を築城し、北条氏、徳川氏、上杉氏を転変する。天正13年(1585)には昌幸と子・信幸(信之)が上田城にこもり、徳川家康の大軍を迎撃し大勝。また慶長4年(1599)徳川主力の秀忠[ひでただ]の大軍を防ぎ関ヶ原の合戦を遅らせ、天下の徳川軍に2度圧勝したことは後世の語り種となっている。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後は没落し、高野山(和歌山県伊都郡高野町)へ配流。慶長16年(1611)山麓の九度山[くどやま](和歌山県伊都郡九度山町)で病没した。享年63歳。

その間、長男・信之[のぶゆき]を東軍徳川方に、次男・幸村[ゆきむら]を西軍豊臣方につけ、いずれにしても家名を存続させる手段をとっていたが、結果、東軍についた信之が徳川松代十万石の藩祖となって真田氏は受け継がれた。  昌幸の墓は、上田市真田の長谷寺[ちょうこくじ]にあり、幸隆夫妻の墓とともに並んで建っている。

横田備中守高松(よこた・びっちゅうのかみ・たかとし)

[長享元年(1487)?~天文19年(1550)]
横田備中守・高松・十郎兵衛
※武田二十四将の一人でもある。
敵の動きを機敏にとらえる抜群の合戦勘で、数多くの勝利を導いた知謀の将

横田氏は、近江源氏・佐々木氏の流れをくむ六角[ろっかく]氏。甲州に来て信虎に仕えた。信玄の代には騎馬30騎、足軽100人の足軽大将となり、甘利[あまり]隊の相備え[あいぞなえ]をつとめた。

合戦に34回出陣し、受けた刀傷は31カ所を数える猛者。敵がどこに来るのかをいち早く察知し、敵の裏をかきその場所を陣取る先手必勝を得意とした。信濃経略にあたっては第一線の部隊を率いて、天文15年(1546)の佐久郡志賀城攻めなどをはじめ、板垣信方[いたがきのぶかた]・甘利虎泰[あまりとらやす]・飯富虎昌[おぶとらまさ]らの侍大将に匹敵する活躍をみせた。隣国にもその武名はひびきわたり、敵を恐れさせたという。

天文19年(1550)村上義清の砥石[といし]城攻めで、味方の撤退を援護する殿[しんがり]をつとめ、最後まで敵地に踏みとどまり奮戦。村上軍の追い討ちによって横田隊は包囲され、1,000人の兵とともに討ち死に。信玄はいつまでも高松の死を惜しんだという。

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相木市兵衛昌朝(あいき・いちべえ・まさとも)

[生年不詳~永禄10年(1567)?]
政信、依田能登守常喜
信玄に重用された信濃先方衆の精鋭
川中島の戦いで妻女山攻撃隊の一隊を率いる

佐久郡南部、相木城(見上城・佐久郡南相木村)城主で、天文12(1543)年ころには、武田氏の配下となり、信玄の信濃攻略において地の利を活かし数多くの戦功をあげた。信玄からの信頼も厚く、騎馬80騎持ちで田口城(佐久市臼田)城主となったと伝えられる。

永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、高坂弾正[こうさかだんじょう]、真田幸隆らとともに妻女山の上杉軍を突く啄木鳥[きつつき]隊の一隊を指揮した。

川中島の戦い以降、相木氏は善光寺城山下付近に相木城を築き、善光寺平の治安維持に務めたという。長野市三輪には昌朝が在陣したと伝わる相木氏の城館址があったが、昭和33年(1958)長野女子高等学校建設により取り壊され、跡地に小宮と城跡碑が建立された。この地籍を走る北国街道は現在「相ノ木通り」と呼ばれている。

仇敵村上氏に対抗し、武田に従った相木依田氏

相木氏は、阿江木[あえき]氏ともいわれ、小県郡依田荘(上田市丸子)を発祥とする依田氏の一族という。当初、北佐久地方を治めていた大井氏の重臣だったが、文明16年(1484)、村上政清、顕国※父子が佐久に侵入し、大井城が攻略されてからは、相木氏は大井氏を離れ、佐久郡相木城を拠点とした。その後、相木能登守(昌朝)の代となり、武田信玄の信濃侵攻を機に、かねてから村上氏を快く思わなかった相木氏は、武田方に与したのではないかともいわれる。

天正10年(1582)武田氏滅亡後、相木氏は小田原北条氏に属したが、徳川方の依田(芦田)信蕃[しんばん/のぶしげ]に田口・相木城を落とされて関東へ逃れた。天正17(18)年(1589、1590)には伴野貞長らとともに旧領を奪還すべく相木に挙兵したが、松平康国に攻められて敗れ、再び上州(現在の群馬県にあたる)へ逃れたという。

※この村上顕国の子が、村上義清である。