戦記「甲越信戦録」巻の六

一.四度目上野原対陣のこと

戸隠、戸神山の上野原

 当国、信州に紛らわしい地名がある。「上野」である。「ウハノハラ」という時は、小県で、上田東伊勢山(上田市上野地区、砥石城跡のあたり)である。「ウワノハラ」という時は、水内郡で、吉田稲住(長野市若槻・上野・稲田地区のあたり)の方である。「ウエノハラ」という時は、戸隠山中(長野市戸隠)である。

 読み方によって方角はたいへん相違する。上杉秘録『五戦記』に、弘治二年(1556)謙信公が信州に出て戸神山に陣すという。これは弘治三年(1557)のことである。信州に戸神山を知っている人は希(まれ)である。

 戸隠山は、一名「戸神山」という。神代の時、手力雄尊(たぢからおのみこと)が、天の岩戸を引き放して、お投げになられたところ、この峰に止まったことから、戸隠山(標高1904m)という。戸をお放ちになられた神を祀るゆえに、戸神山という。

謙信公、信州へ出馬し、髻山の山中に陣を置く

髻山城を望む

 弘治三年(1557)八月、上杉謙信公は信州へ出馬した。大田切・小田切※1との間から戸隠山の北、院苗の滝※2を見て、上野原より髻(もとどり)城※3に本陣を置いた。総勢一万五千余人。空濠を構え、柵を囲い、長陣の用意だったが、越後勢はこうした山中の陣を不思議に思い、謙信公の心中を推察できなかった。

 謙信公は
「孫子の謀攻篇には、『百度戦い、百度勝ったとしても、善の善たるものではない。戦わずして敵兵を屈することこそ、善の善たるものである』と述べている。予がここに陣を構えたのは、三つの大事を思うからである。
  第一は、この所は、味方が馳せ行く自在の地である。
  第二は、この所は、敵方より夜討ちの忍び入ることができぬ場所である。
  第三は、この所は水の手がよく、敵が火をかけることのできぬ所である。
  これらの損益を考えて、敵をここに誘い出し、戦おうとするためである。譬(たと)え一合戦がないとしても、対陣して敵を屈するには最良の所である。義経軍法百首にも、『攻めもせず、戦いもせず、義をもって、すべて勝つは、善の善である』とも記している。勝つ手は駆け引きによる。もし敵が来たら、敵に退屈させ、不意にかかろうぞ」 と仰せになり、兵糧と薪を山のように積ませた。

※1)小田切・大田切……いずれも新潟県妙高市田切のあたりと思われる。
※2)院苗の滝……苗名の滝(新潟県妙高市杉野沢)と思われる。
※3)長野市浅川西条と上水内郡飯綱町牟礼との境にある髻山山頂に築かれた山城。髻山城

甲州勢、勝負を決しようと戸隠山の麓に対陣す

 謙信公出馬の飛札(ひさつ)が甲州へ届いた。信玄公は躑躅(つつじ)ヶ館を出馬し、海津へ入城した。兵は信濃各地から相加わって総勢二万三千余人となる。

 小山田備中守、高坂弾正は御前にまかり出て、「この度の上杉勢は川中島に出陣せず、戸隠山の間、上野原※に陣取りしたとのこと、その意図理解できかねまする」と述べた。これに対し、信玄公、「謙信はさぞや一ッの利を見つけて、上野に陣取りしたのだろう。どれだけの妙計があるにせよ、敵は客戦、味方は主戦。この方より押し寄せ、勝負を決しようぞ」と仰せられた。

飯縄山

 家臣一同その儀に応じ、戸神山へ出馬した。誠になにもない上野原は、四方が皆、山また山である。飯縄山(標高1917.4m)はそびえて天に近く、清水岩を叩いてみなぎり落ちる閑曲の地である。甲州勢も陣を堅くし、柵を構え、要害厳重にして互いに夜討ちを戒め、対陣はいつ終着するかわからない状態が続いた。

【※補足】
髻山は、戸隠からは飯綱山(飯縄山)を挟んだ東方にあるので、話のように両軍が対陣するには位置的に無理があります。弘治3年(1557)8月の川中島の戦いにおける「上野原の戦い」は、髻山城近くの若槻上野原(うわのはら)と、戸隠上野原(うえのはら)の両説があり、いずれか一方が戦場ならば辻褄があうのですが、「甲越信戦録」の作者(もしくは写本の段階で)も混同したのではないかと考えられます。この原稿ではほかの箇所同様、あくまで物語として地理的な隔たりは無視し、原文どおりで掲載しました。

信玄公、忍びの報せを聞き、敵陣の火事を予見す

 時に、八月二十三日、甲州の忍びの者が上杉勢の陣所を窺って本陣に戻り、「不思議なことは、上杉方は小荷駄をつけ出し、人夫までも立ち騒ぐ様子。どうやら将軍の陣払いでござろう。越後に大事件発生と見えまする。急ぎ兵をまわし、敵の返り路を遮(さえぎ)れば、味方は勝利するはず」と注進した。これを聞いた信玄公、からからと笑われ、「今明晩の内に敵陣から出火があったとしても、けっして味方の勢一人も攻めかかってはならぬ」と厳命した。

 高坂弾正は、この旨を味方に触れまわった。士卒らは「火事を前もって知る人などおられようか」といっていたが、ある士卒は、「東福寺(京都市東山区にある臨済宗の寺)の長典子※(ちょうでんす)が、ある時、廊下より西の空を詠(なが)め、『唐の国でやがて火事があるだろう。我はこれを救わねばならぬ』と一瓶の水を西へ投げられた。翌年、唐の育王寺より使いが渡来して、『去年の出火の節は、お救い下され、忝(かたじけな)く候』と、瑪瑙(めのう)の卓をお礼にと持参したという。こうした例もあることから、信玄公も未然を察知されたのかも知れない」と申した。

※長典子=兆殿司(ちょうでんす)。吉山明兆のこと。室町時代初期の画僧。東福寺の殿司の役にあったので兆殿司といわれた。宋・元の画法を合わせた強い筆致が特徴。

敵陣に火の手あがるも、お触れに随い甲州勢動じず

 翌晩二十四日、すでに夜が更け渡るころ、信玄公が申された通り、越後の陣から火の手が上がった。火煙は八方に舞い広がって天を焦がす勢いである。これを見た甲州勢は勇み立ち、敵の出火は味方の吉事、敵陣へ切って出ようとひしめきあった。しかし、先達(せんだっ)ての御触れはきっとこの事に違いないと思い出し、ただ遠見して見守った。

 翌朝、上杉方を見ると大鳥が翅(翼)を開いたように左右に分かれて布陣している(鶴翼の陣)。そして山のように薪を積んで焼き、甲州勢が来たら引き包んで討ち取ろうと待ち構えていたことがわかった。信玄公は前もってこれを悟っていたので、一人も出撃させなかった。上杉方の計略は水の泡となった次第である。

信玄公、負けじと秘計をめぐらす

 さて、信玄公は浅ましい謙信めの胸中、今後の戦略もおよそ見当がついたと、相応の戦術で勝利を得て見せようと、大将分を召し連れて申し渡した。

 「味方二万余人の軍卒のうち、一万は旗本と定め、残る一万余人を五千づつ二手に分け、両側の林に隠れよ。そこへ、馬三十疋(ひき)を手綱を切って敵陣の方へ放し、雑兵どもがこれを捕えようと追っていく体に見せ、馬をたたき立て、敵の方へ追い出せ。越後勢が馬を取ろうと備えを乱して崩れ立つところを、二つの伏勢が落ち合って追っ取り込み、一人も余さず討ち取るべし。向こう備えの者どもも一同に攻めかかれば、必ず切り崩すことができよう」。 皆々はこの戦術に「あっぱれ孔明※の秘計」と感じ入った。

※孔明=諸葛亮(しょかつりょう)。孔明は字(あざな)。中国、三国時代、蜀漢の名宰相。劉備に「三顧の礼」を受けて仕えたと伝えられ、天下三分の計を説き、蜀漢の建国を助けた。歴史小説『三国志演義』においても、信義に厚く、知略に優れた天才軍師として描かれている。

謙信公、武田の計略を見破り、両虎相砕くが如し

 こうして二十六日の朝より静かに勢を伏せさせ、夕方になって馬三十疋(ひき)を敵の方へ放した。昔、聖徳太子が甲斐の黒駒を召し連れたほど、甲州は全国有数の名馬の産地である。越後勢は武田の計略とも知らず、我先にと甲州の馬を奪い取ろうと陣所々々一同に騒ぎ出した。

 山の半腹よりこれを見下していた謙信公は、計略を見破り、「決して馬に気を奪われず、備えを崩すなと触れるべし」と宇佐左馬介、和田兵部に下知された。二人が「敵の馬に目を懸けるな!味方の馬は出羽(でわ)の出生にて敵に劣りはせぬ。備え崩さず相守れ!」と馬上にて駆けまわったので、皆々静まった。

 武田方は越後勢の透間を待ったが、ついに備えは乱れなかった。蘇子の書に、「智をもって智を攻め、勇をもって勇を撃つ。両虎相砕くが如し。歯牙気をもって相勝つことなし」と述べているように、互いの計略は不成功に終わり、両陣営は対陣したまま退屈の思いを募らせた。

使者鬼小島弥太郎、信玄公の猛犬を軽々と圧殺す

 こうしたところに越後からの使者が上野原の陣所に来た。「京都将軍家よりの御召し。急ぎご帰国されたし」との知らせであった。これによって謙信公は、武田の陣へ鬼小島弥太郎一忠を使者として遣わした。謙信公の口上は、
「この度、京都将軍義輝公の御召しにより上洛仕(つかまつ)り候。このゆえに、軍勢を越後へ引き取り候。勝負を決せんと思われるならば、貴殿方より戦を始めなされて結構。ただし、帰国まで戦会を御延引くだされるよう」と、弥太郎一忠は、敵中恐れず、信玄公の御前でも少しもひるむことなく、堂々と口上を申し述べた。

 そんな弥太郎の大勇を憎む武田の軍兵は、信玄公ご秘蔵の「獅子」という唐犬をけしかけた。犬は口上を述べる弥太郎の右の膝へ食いついた。だが弥太郎は少しも顔色を替えずに口上を述べながら、彼の犬をちょっと押さえただけで、犬はそのまま鳴き声も立てずに死んでしまった。人々は弥太郎の強力、沈着に驚くばかりだった。

 信玄公は口上に対し、「仰せの趣、御念の御儀、戦はこの度に限らぬ所存。拙者も甲州へ帰陣し保養仕ろう」と返答し、双方ようやく和睦が成立した。互いに旗を巻き、馬印を伏せて両大将は馬上にて、冑、甲を脱いで式礼されて別れた。士卒も互いに目礼し、左右に別れて帰国した。

二.謙信公上洛のこと

謙信公、管領職を継ぎ、将軍に謁見のため上洛す

 そもそも、足利将軍家と申すは、清和天皇より十七代目の皇孫足利高氏、のちに尊氏と書き改め、征夷大将軍となられた。三代目の将軍義満より公方の尊号を勅許される。これより公方と称し奉る。十三代目、参議左中将義輝公は、京都室町に唐の宮殿のような御所を建てたが、当将軍の不徳であろうか、諸国の動乱は止まず、諸侯の拝礼も上洛も絶えて、将軍はあってないようなものであった。

 謙信公のこの度の上洛は、兼ねて上杉憲政より譲り請けた管領職について、将軍への拝謁を許されたゆえである。謙信公は、北国通りをして、都に到着。室町詰衆に上洛の届けをするため、鬼小島弥太郎を使者に遣わした。

将軍ご寵愛のお猿様と鬼小島弥太郎

 義輝公はたいへん武術をお好みになられ、ご近習、お小姓に武術の稽古を仰せつけては、ご覧になられた。ところで、御所には人の真似をすることが上手な年を経た猿が飼われていた。お小姓の立ち会いにも木太刀をもって交じることがあったが、元来身軽なこともあり、人間にはこの猿に叶う者はいなかった。義輝公はこれをお慰めにご覧になられ、近習が猿に打ち負ける時などはご機嫌であった。しかし、この猿、将軍のご寵愛をいいことに、後には手におえず、初めて御所へ上がる者を見ると刀を奪い、木刀を持ってかかってくるので、困惑する者も多かった。しかし、人々はお猿様と称して大切に飼育していた。

 そうとも知らぬ使者の鬼小島弥太郎一忠、お詰衆の間へ行くと、廊下を通る時に件の猿が木刀をもって横合いより飛びかかり、踊り上がって弥太郎を打とうとした。弥太郎は、扇子にてこれを受け止め、引き外して猿の額を打った。猿は眼がくらんで、がばっと伏せ、弥太郎はその背中をもう二ツ三ツ打ちすえた。辛い目にあった猿は、弥太郎の顔をみつめて手を合わせて蹲(うずくま)った。そうこうして、弥太郎は届けを終えて立ち帰った。

 翌日、謙信公は弥太郎を供にして出仕された。詰衆の面々は、慰みに件の猿を廊下に置いて、謙信公を困らせようと仕組んでいた。そこへ謙信公が通られて、例の猿が飛びかかろうとする。けれども脇にいた弥太郎がじろっとにらんだので、猿は身を震わせて平伏してしまった。それを見た詰衆の面々は、実にも謙信公の威勢「あら凄まじや」と驚いたという。

謙信公、将軍より「輝」の一字を賜る

 謙信公が献上の品を広間に並べると、やがて将軍義輝公が御出座されて対面した。そして将軍より諱(いみな)の一字「輝」を賜り「輝虎」と号し、管領職就任が認められた。謙信公は御礼申し上げて御所を下がられた。

 翌日、謙信公が参内されると、天願を拝し、天盃頂戴の上、従三位に昇任された。この日より、従三位弾正藤原朝臣輝虎入道不識院謙信と名乗られた。越後へ帰国の道中はいかめしく、誠に関東武家の棟梁にふさわしい帰国であった。

三.和睦内談のこと

村上義清、信州への帰国を断念す

 年号は改まり、永禄(1558~1569年)の初春、越国の一門、高家の祝儀が厳かに催された。上杉謙信公のお悦びはこの上もない。

 時に、村上左衛門尉義清殿は、越後の客人となって、天文十六年(1547)より永禄元年(1558)まで、かれこれ十二年の間に及ぶ。自分のせいで越後の士卒を数多失い、大勢に辛労をかけてきた。もはや帰国の望みも薄れた今、この歳で男を立てようとも無益なことと、髻(もとどり)を切り、日龍寺と号して、義清殿は出家の身となった。

謙信公、武田方に和睦を申し入れる

 謙信公は、義清殿の心中を痛わしく思われ、子息の村上源吾国清を越後下岩船の城主にされた。義清殿が帰国の望みを断念されたので、もう甲州と争う必要はないだろうと考え、使者長尾虎包四郎景行を信玄公の元へ遣わした。その口上に、

 「数年の間、貴殿と争ってきたが、村上義清殿に頼まれ、止むを得ず干戈(かんか)を交えたことは武門の法である。貴家に対し遺恨は少しもない。この度、村上殿が出家なされたので、もはや武田家とは鉾を争うことなく、某(それがし)は北国通りを攻め随い、亡父為景に孝養を尽くす所存。しかる上は、貴殿と対面して和睦をなし、この後は隣国の誼(よし)み、互いに水魚の交わり※を結びたく存ずる」と申し送られた。

※親密で離れがたい交わり。『蜀志・諸葛亮伝』より。

信玄公、和睦の儀を承諾す

 謙信公の和議の申し入れに、信玄公も悦ばれ、「家老どもと談じ、和睦の日限と場所については使者をもって貴意を伺いたく所存」とご返答された。そして即座に馬場真田内藤山形(山県)・長坂・跡部らを召され、和睦のことを相談された。すると一同に言葉を揃え、「敵より和を請うは重畳(ちょうじょう)の儀(この上もなく喜ばしいこと)でござる。ご得心なられ、和睦されるがよろしいかと存じます」と申し上げた。

 こうして使者は百足組の内、工藤市兵衛尉祐元が越後春日山へと遣わされた。その口上は、 「先達ての趣、とくとご承知つかまつる。和睦の儀は来たる五月十五日、場所はこれまでの戦場川中島にて、千曲川を前に隔て、和睦つかまつろう所存」と述べた。謙信公大いに悦ばれ、ご馳走を仰せつけ、工藤を武勇ある者とお誉めになり、御太刀を引出物にお与えになられた。工藤は丁重なもてなしに御礼を申し上げて甲斐へと帰っていった。

四.和睦破れること

千曲川の岸にて、和睦の儀、はじまる

 甲越和睦の場所は雨の宮と定まった。両将は信州へご出馬し、家臣たちは悦びの声ひとしおで、万歳のこだま。海には緑の亀湧き出すと唄い、舞い祝った。

 五月十五日は未明より晴れ渡る。双方で取り交わした和睦の儀式は、
一、午の正刻(正午)開式。
一、両公とも床几(しょうぎ)に腰をかける。
一、陣所前は、馬廻り五騎づつ相連れる。
と定めた。

 近辺の農夫らは、これまでは度々の合戦で田畑を荒らされ、火をかけられ、あるいは乱暴狼藉に難儀したことも胸の内におさめ、今日和睦と聞いて悦びの歌、祝いの餅つく臼の音も賑わしい。「いざや!和睦の式を見せたまわれ」と我も我もと集まり、両川岸に頭を並べた風景は、まるで千躰仏のようであった。

これは一大事! 信玄公の非礼に謙信公憤慨し、里人は焦燥す

 両将は互いに五騎の供を従え、その堂々とした出で立ち、華麗華美な姿は人々の目を驚かせた。生まれつき人に譲られることが嫌いな謙信公は、約束の通り川端に進んで馬より飛び下り、最初に床几に腰をかけられた。

 ところが、信玄公、わざと向こうを見合わせ、静かに川端に乗り出して、馬氈(ばせん・馬の鞍におおい敷く毛布。くらおおい)を直すふりをして、馬上より声をかけられた。 「苦しからず輝虎殿、乗られ候え!乗られ候え!(気を召されるな、輝虎殿。床几に腰をかけることはない、馬に乗られよ)」。

 人を見下した信玄公の失礼な態度に、謙信公は怒りの顔色となり、眉は逆立って一言も言わず、そのまま馬に打ち乗り、まっすぐ跡へ引き返される。「すは! 大事ぞ」と手に汗を握りしめ、見物の大勢は色青ざめ、どうなることだろうと成り行きを伺った。

安田伯耆守、信玄公に約定破りの了見を問いただす

 この時、上杉よりの使者、安田伯耆守武包[やすだほうきのかみたけかね]は、馬で川に乗り込み、半ほどまで来たところで、 「それ、輝虎が先祖は、鎌倉権五郎景政[かまくらごんごろうかげまさ]より数代、父為景まで弓矢の道を相続された。昔、頼朝公の富士の御狩の時も、御所の御陣屋の次は先祖梶原でござった。その方の先祖武田太郎義信は、五番目に下がって陣屋を設けた。今また、管領の前とも憚(はばか)らず、約束を破り、床几に下りず、馬上の一言、不礼もはなはだしい。その了見を承りたい」と申し述べた。

謙信公、堪忍なり難く、和睦撤回となる

 これに対し、信玄公は申された。
「これは珍しい長尾の系図を承ったが、そもそも当家は源頼義[みなもとよりよし]の嫡子、八幡太郎義家の舎弟、新羅三郎義光[しんらさぶろうよしみつ]の末にて、その方の先祖、権五郎景政の主筋(しゅうすじ・主君)であった。また梶原平蔵景時は、源家より取り立ての被官ではないか。これを家の系図とは申し難い。その上、今の管領とはいずれは元来他家の職である。上杉憲政は民を苦しめ、非法の権力を振ったために北条氏康に討ち負け、越後に逃げ入り、譲った管領ではないか。昔をいえば主筋の某は、馬上、その方は床几が順当ぞ。輝虎は愚昧の人ぞよな」と申された。

 使者は面目を失って立ち帰り、この返答に謙信公もいよいよ堪忍なり難く、「今の返答となっては、村上の件はさておき、是非一合戦仕ろう」と申し送った。信玄公、この挑戦を受け、「重ね重ねて戦会いたそう」と申し遣わす。和睦は破棄され、すべては白紙に戻った。見物の者たちは色を失い、またも合戦始まったら、他国へ逃げようか、山林へ隠れようかと大いに嘆き悲しんだ。

出家はせずとも、心の中には御仏の魂を

 兼好法師(吉田兼好)の『徒然草』に、
「人と生まれたらん印に、如何にもして世を遁れん事こそ、あらまほしきことなり。偏に貪る心を勤めて菩提に赴かざらんや。万事畜類に等し」と述べている。

 また、『六道講式(ろくどうこうしき)』※1にもあるように、「適頭を剃りて心を剃らず。衣を染めて心を染めず。このように頭は丸くも心に角立てる人、世に多い。衣は墨染(僧衣)ならずとも、心に墨染の衣を懸けたいものである」。

 慈鎮(じちん)和尚※2は、歌に詠んだ。
 何故に捨てたる身ぞと折々に 姿に恥じよ墨染の袖
 なんと情けないことか。信玄公、謙信公は銘々姿にも恥じず、刃を振うとは、出家した甲斐がないというもの。その上、領民たちの患いも顧みず、数多くの人の命をわきまえぬこと、誠に嘆かわしいことである。

※1)天台宗の僧源信(恵心僧都)作。「二十五三昧式」とも称され、六道の物語に節をつけた法要。語り物音楽のルーツとも伝えられる。

※2)慈円(じえん)。鎌倉時代初期の天台宗の僧。吉水僧正とも呼ばれ、『愚管抄』を著し、歌人としても名高い。

五.山本帯刀徳川家に仕えること

山本帯刀重頼、兄勘助との敵対関係に思い悩む

 豆を煮るのに豆の殻を燃料として使い、豆殻は燃え、豆は釜の中で泣く。もとは同じ根から生まれた兄弟なのに、互いに傷つけ合うとはなんということか。このように曹植(そうしょく)は「七歩の詩」※で嘆いた。

 山本勘助の弟、帯刀は、無情にも兄弟が敵と味方に別れて仕え、刃を振るう戦場を物憂いことと思っていた。この度、和睦となれば兄弟対面して、水魚の交わりをしたいものだと悦ぶ甲斐もなく、和睦は破れてしまった。今度起こる戦いこそ、どちらかが討ち死にすることになるだろうと、案じ煩っていた。

※曹植(そうしょく)は、兄である中国の魏(ぎ)の文帝(曹丕)からその才能を憎まれ、「七歩あるく間に詩を作らなければ罰する」と言われて詠んだと伝えられる。

謙信公、帯刀の憂いを察し、徳川元康公に出仕させる

 謙信公は、気働きのある大将だったので、そんな帯刀の憂い顔を見て、 「汝の軍術は誠に天下の宝だが、それを活かす大戦はなく、駿馬を塩車に用いることと同じである。我が思うに、徳川元康(徳川家康)はゆくゆくは四海を掌に握るであろう者。その方は元康に仕えて名をなすがよかろう」と申された。

 帯刀は、「良臣は君を選ぶと申しますが、拙者のような愚臣が御前をお選びいたすのは、外に仕えさせていただける主人がいないからでございます。殊に二君に仕えるとなると、武門の恥じるところでもございます」と申し上げる。

 その時、謙信公は、「その方の兄、勘助は甲州方、この次の戦いには信玄の首を見るか、予が討死するか二つの内一つとなろう。汝も戦場で勘助とめぐり逢えば、勝負しなくてはなるまい。予は汝の憂い、よくわかる。だからこそ、我が臣として申しつけるのだ。これは予が命令である」と、帯刀を徳川家へ遣わされた。

 元康(徳川家康)公は、はなはだ悦ばれ、御礼の使者を越後へ遣わされた。元康公は、謙信公によく随われ、御仲睦まじく、すぐに帯刀を召し出され、「万卒は得安く、一つ将は得難い。管領の御情がなければ、小身の拙者がその方のような優れた人材を手に入れることはできぬであろう」と申された。

 当時(今。江戸時代のこと)千石を領し、江戸小石川町の山本伊予守は、山本帯刀その人である。

六.割ヶ嶽城攻め並びに謙信出馬のこと

謙信公、上洛につき、斎藤下野守を甲州に遣わす

 年月に関守(せきもり)なく、この年、永禄四年(1561)となる。
 謙信公は去年産出した佐渡の黄金を禁裏(天皇)へ五箱、将軍へ五箱献上された。そしてこの春、再び上洛するため、甲州へ使者を遣わした。使者は斎藤下野守則忠である。他国の使いを勤める者は、弁舌の才覚がなくては難しい。

 斎藤下野守は、『史記』に語られる齊王の使者 淳于坤(じゅんうこん)に劣らぬ才智にたけた者である。世に「富樓那(ふるな・釈迦十大弟子の一人。雄弁で説法第一と称せられた)の斎藤」と名高い。この斎藤下野守は、背丈が低く、一眼の醜男であった。

富樓那の斎藤、武田曲渕・初鹿野・跡部をやりこめる

 ほどなくして斎藤は甲州の館に参上した。出迎えの曲渕庄左衛門(まがりぶちしょうざえもん)、初鹿野伝左衛門(はじかのでんざえもん)が、斎藤を通して、四方山話のあと、「越後は海七分の小国と承ってござるが、しかし、大国でござろうや」と尋ねた。斎藤は、にやっとして、「仰せの通り、海を帯びて六十里程度の小国でござる。甲州はいかほどのお国でござろうや」と問い返す。

 曲渕は、「当国は南北八日路でござる。大国の証には、日々馬が千匹づつ通ってござる」という。 すると斎藤、「それははなはだ小国でござるな。馬千匹に積む荷物は、わが国の船一艘分でござる。越後は日々大船千艘づつ出入りいたす。さて、甲州は駿河より分かれた僅かに四郡の小国。昔、諸国より貢馬(こうば・くめ)※というものがあって、八月十五日に相坂山(逢坂山、大津市)まで牽いてくるのに、甲州と信州とは、その道八日路と定めている。都までさえ八日路なのに、どうして甲州ばかりを八日路とするのか、その意、理解できかね申す」と笑った。  曲渕と初鹿野はやりこめられて引き下がってしまった。

 その後へ、跡部大炊助(あとべおおいのすけ)がやって来て、「いかに斎藤殿、越後では他国への使者に貴殿のような小兵ばかりでござるか。毎度見えられたお使者はいずれも小兵でござる。甲州では、使者は勇を選び、男を選んでござるよ」といったところ、斎藤は、 「越後でも使者については、男をよく選んでござる。大国へは大男を、小国へは小男を選んでござる」と切り返した。 跡部もいいまくられ、恥をかかせられ退散した。

※貢馬……中世、宮廷に献上された馬。平安時代には、毎年8月に各国の牧場から京に届けられた貢馬を天皇が御覧になる駒牽(こまひき)の儀式が行われた。

信玄公、上洛の野望を語る

 しばらく過ぎて信玄公、使者の斎藤と対面された。斉藤の謙信公口上は、「この度、拙者またまた上洛仕り候。私用ではなく公務にて、拙者が帰国しご案内を申し入れるまで、戦会はお延ばし下されるよう頼み申し候」と申し述べた。

 信玄公のお返事は、「再びの上洛、ご奇特に存じ候。愚僧も近々上洛の望みあり。まず駿河の今川、参(三)河の徳川、尾張の織田、伊勢の北畑、江州の佐々木ら、道中の者を討ち亡ぼし、都まで自国に致してから京入りしたいものである。よって貴殿ご帰国するまでは相待ち申す。お留守の儀、お気遣いなされますな」といわれた。

晏子のような者よ、と信玄公、斎藤を誉め讃える

 信玄公は、「富樓那の斉藤」の噂をご存知であったので、御盃を斎藤に下されてから、意地悪く問われた。「その方、はなはだ小男で、見ると一眼である。知行はいかほどであろうか」
斎藤は、「六百貫を頂戴しております」という。
「それは過分の呉れようぞ」と信玄公が笑われると、斎藤は意に介せず、
「武田のご家風は存じ上げませぬが、越後では普代の者と申せば、身障者にても前々の禄は賜ります。拙者の一眼は、片目を射られてもその矢を抜かずに追っ懸けて矢を射返した長尾の先祖、景政に似てれば、武功の印と我が君は悦び、重用してます。御家には、左足が不自由に右眼も潰れておられる山本勘助殿という小兵を、お抱えなられていなさる。そのゆえ我少しも恥じるところはありませぬ」と申し上げた。

 信玄公は斎藤の才を「晏子(あんし)※のような者よ」と誉められて、引き出物をお与えになり、斎藤は無難に役目を果たして立ち帰った。 こうして謙信公は、今は心安しと上洛したのであった。

※中国春秋時代の斉の名宰相、晏嬰(あんえい)の敬称。

信玄公、再び約束たがえ、上杉方の割ヶ嶽城を攻め落とす

 謙信公の上洛後、一方の信玄公は、信州筋御仕置きのため、ご出馬された。
海津より高坂弾正忠昌信がご案内し、水内郡、高井郡をまわる。高坂は越後境の大田切まで乱入して、民家所々に放火する。ここまで踏み込んだ上は、割ヶ嶽(わりがたけ・鰐ヶ嶽ともいう)の城※も攻め落とすべしとの上意によって攻め懸った。

 越後方は不意の放火に驚き、かつ卑怯の振舞いと大いに怒り、牙を噛む思いである。武田方の多田淡路守、浦野民部左衛門・原美濃守入道は先手に進む。謙信公より守将に任命された割ヶ嶽図書介は七百人の小勢であったが、大石、大木を甲州勢の上へ落とした。先方衆は数多の戦死、戦傷者が出たが、死を恐れず先懸けを争った。城中一同死者狂いと切って出て、違約した武田の人でなしめと歯ぎしりして奮戦した。

 甲州勢は苦戦であったが、浦野民部左衛門が搦め手より息をも継がせず攻めるうちに、城中の兵は枕を並べて討死していく。信玄公は下知して城郭を破却して、勝鬨(かちどき)を揚げ引き取った。この戦いで原美濃守は深手を負ったので、甲州へ帰された。

※割ヶ嶽城(上水内郡信濃町富濃柴津)。永禄4年(1561)5月に大森掃部助が攻落し、武田信玄に所領を安堵されている。なお、安曇郡小岩ヶ嶽城(安曇野市穂高町有明)も割ヶ嶽、または蟻ヶ嶽と称された。

「信玄八悪」、仁なくば、お家は亡びる

 信玄公は、日本開闢(かいびゃく)以来の良将で、戦場の働き智勇は兼ね備えの人である。しかし、仁の道は薄かった。これがこの人の欠点である。世で「信玄八悪」といって、一ッに信虎、二ッに義信、三ッに頼重、四ッに盲人、五ッに希庵、六ッに大田切、七ッに割ヶ嶽、八ッに身延であるとあげている。

 ああ、惜しいことよ。仁ないゆえか、信玄公一代にして勝頼の代に武田家は亡びてしまった。仁あれば、代替りしても実を生じ、家門繁栄する。これは人に真心をかけるからである。
 信玄公は、「仁は、百災を除く」ということをご存知なかったのではなかろうか。

「敵に塩を送る」、その仁あればこそ、お家は繁栄す

 謙信公は、戦の道は信玄公より劣っていた。しかし、悪と呼ばれたことはない。謙信公には仁を保つ心がある。このごろ信玄公は一門である駿河の今川、小田原の北条らとも不和になった。両国の大将は武田を憎み、甲州へ塩留めをした。民は塩に難儀していた。これを聞かれた謙信公は、塩を甲州へ送ろうといわれた。家臣一同は、「武田との干戈(かんか)の最中に塩を送れば、所詮武田にかなわずと、追従賄賂と取り沙汰されること無念」と強く反対した。

 これに対し、謙信公は、「その方達は、ただ信玄一人を恨んでいうことだ。我はそうではない。甲斐の国の民を不便(ふびん)と思うからである。民を救うは大将の法務。塩を送ったとて、戦場の障りになるまい」と三百駄の塩を送られた※。眼前の敵国へ塩を送られたのは、仁の勝る点である。陰徳あれば陽報あり(『人知れず善行を行えば、必ず善い報いがある』の意)、貫禄ともに不足なく、御家はご繁栄している。

※故事成語の「敵に塩」は、謙信の甲斐に塩を送った古事に由来する。相手を有利にさせることの意。

「信玄許すまじき!」と謙信公、川中島へ、いざ出陣!

 こうして謙信公は都より帰国された。ところが、留守の間、武田軍によって大田切が放火され、割ヶ嶽城を攻め落とされたことを聞かされた。「信玄め、理由もなく約束に背き、無法の働き、まさに言語同断である!」。大いに立腹された謙信公は、今度こそ有無の決戦をせんと春日山を出馬された。随う人々は、

先陣

柿崎和泉守・柴田周防守・本庄越前守・北条安芸守・長尾右衛門尉・安田掃部頭・直江山城守・宇佐美駿河守・甘粕近江守、八組合わせ三千五百余人。

二陣

鬼小島弥太郎・新津丹波守・松原壱岐守・新発田尾張守・松川大隅守・柿崎日向守、六組合わせ三千余人。

後陣

飯森摂津守・辛崎左馬介、二手合わせ三千余人。

御大将の左右

平賀志摩守・山吉玄蕃頭、その後には、村上日龍寺義清・井上備後守・高梨摂津守・須田相模守・綿内内匠頭・須賀但馬守・毛利上総介。

総勢合わせ一万三千余人。戦勝の門出を祝う酒宴が催されてのご出馬であった。 時に、永禄四年(1561)八月十四日のことである。