永禄4年(1561)9月10日、山本勘助の「啄木鳥(きつつき)の戦法」により妻女山(さいじょざん)の上杉軍背後を突こうとした高坂弾正、真田幸隆ら十将が率いる武田軍(啄木鳥隊)だったが、上杉謙信に見破られ、敵本陣はすでにもぬけの殻。急ぎ信玄本陣の川中島八幡原に駆けつけるため、啄木鳥隊は千曲川の十二ヶ瀬を渡ろうとした。ところが、上杉軍甘粕(あまかす)隊に行く手を阻まれたため、隊は乱れながら浅瀬を求め駆け回り、上流の戌ヶ瀬や下流の猫ヶ瀬をどうにか渡っていったという。
戌ヶ瀬は、現在の赤坂橋付近、または岩野橋付近の千曲川の浅瀬で、妻女山から信玄八幡原本陣まで最短となる十二ヶ瀬を渡るより2kmほど遠回りであった。
岡澤先生の史跡解説
戌ヶ瀬は、上横田と下横田の間、藤宮(ふじみや)という辺りで、岩野(いわの)橋上流付近にあたる。「雨宮渡(あめのみやのわたし)」ともいわれる。この渡しの上手には、千曲市森・倉科方面から千曲川に落ち込む沢山川がある。この落合下流は浅瀬が形成されやすい。雨宮の渡しは「犬でも渡れるような浅瀬」から、千曲川左岸の里人は「戌ヶ瀬」と俗称したという。下流の「十二ヶ瀬(じゅうにかせ)」「猫ヶ瀬(ねこがせ)」も千曲川の左岸の里人の呼称が定着した地名である。
雨宮渡の項で詳述しているように、戌ヶ瀬(雨宮渡)付近は、関東と北信越を結ぶ千曲川の重要渡河点で、この地をめぐる争奪戦がしばしば展開された。永禄4年9月9日夜半、上杉軍は戌ヶ瀬・十二ヶ瀬・猫ヶ瀬を渡り、八幡原に布陣する武田軍を奇襲攻撃した。謙信はこの瀬(雨宮渡)を渡った。
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