海津城跡(松代城跡)

海津城

読みは「かいづじょう」。山本勘助が築城し、甲州流築城の模範になったといわれる名城。川中島平全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を巧みに利用した堅固な造りであった。激戦となった第4次川中島合戦では、信玄がここを基地として出撃する。 永禄3年(1560)ころには完成したと推定され、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によると、謙信との合戦に備えて信玄は築城を急ぎ、山本勘助は80日で普請したという。

初代城将は高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのじょう※・まさのぶ)。築城当時は「海津城」と呼ばれていたが、関ヶ原の戦いの前に当時の城主森忠政(もり・ただまさ)が「待城」、その後松平忠輝(まつだいら・ただてる)が「松城」と改め、真田三代藩主幸道(ゆきみち)のときには「松代城(まつしろじょう)」と改められた。
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。

海津城と称されるようにかつては海のごとき千曲川のほとりにあったが、寛保年間の瀬直しにより城は川岸から離れた。明治の廃藩置県で廃城となり、石垣が残るのみとなったが、昭和56年に国史跡指定。平成の大普請では太鼓門や北不明門(きたあかずのもん)などが復元され、かつての姿がよみがえった。本丸跡の石垣に上がると、謙信が陣を張った妻女山がよく見える。

桜の名所としても知られ、また、小説『風林火山』では、信玄が「月にいい」城と、勘助に語るシーンが描かれている。

岡澤先生の史跡解説

海津城の名称は、山本勘助の甲州流築城法「甲斐図」に拠り、築城されたところからついたという説もある。明治4年(1871)廃藩置県令で、松代城は翌年廃城となり、本丸・二の丸・三の丸の楼門塀などが取り壊された。真田家の邸宅として取壊しの難を免れた花の丸御殿は、同6年(1873)、不審火により灰燼に帰した。城内の門には、城内入口の南大御門、本丸には太鼓門・東不明門・西不明門・北不明門・土門と呼ばれた通用門などがあった。

小島田町の杉山利治家の表門の屋根屋根瓦は、巴瓦に真田家の家紋「六連銭」がはいっている。間口2.7m・奥行1.8m、杉材で造られている。東側に潜り門があったが、門を修復したときに取り除いてしまったという。当主の話によると松代藩に出仕していた三右衛門が廃城のとき払い下げを受けた門という。

また、稲里町広田の広田砦跡には、同砦の守将であった大日方佐渡守開基の昌龍寺がある。この寺の鐘楼は「四面角塔二層」である。基底部約3.6m四方・2層部約1.8m四方、高さ約15m。1層の隅柱と中柱は手斧削りで、尺角の松材が使われている。この鐘楼は、松代城の隅櫓(すみやぐら)を移築したものと伝えている。兵庫県豊岡市の仙石氏の出石(いずし)城太鼓櫓(重要文化財)や群馬県沼田市の沼田真田氏の沼田城太鼓櫓に、この鐘楼は外形が酷似している。

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