戦記「甲越信戦録」巻の五
一.原の町合戦、附り、保科・綿内・真田働きのこと
高坂弾正、村上勢の勢いに「逃げ弾正」となる
天文二十三年(1554)八月十八日の朝、越後方の者たち五、六十人が馬草を苅りに出た。この時、武田方の高坂弾正の陣から雑兵が出て、鎌を奪い取り、二、三十人打ち殺し、残る者も半死半生にして引き取った。
これを見た村上義清は大いに怒り、「高坂弾正はしたなし、人倫をふみにじる奴よ。元来、源五郎という農夫にて、武士の道を知らぬ。予が片腕であった額岩寺を欺いて首をはねた憎い奴め」と、高梨・須田はじめ五百余人、村上の紋どころの丸上の旗を指し上げて踊り出て、高坂の雑兵を中に取り込み散々に相戦う。積もる恨みのことなれば、義清は冑(かぶと)を傾け、真一文字に春の雲雀の登るように切り込んだ。この戦いぶりを見て、井上・綿内の面々も我劣らじと、槍先を突き立て切りまくる。
さすがの高坂も突き立てられ、千曲川へと敗走した。この時より高坂を「逃げ弾正」と異名する。村上の働きに武田の先手が危うくなり、二の目に控える真田弾正忠幸隆、保科弾正忠正直らが高坂を助けようと横合いから突き懸(かか)り、義清を目がけ鉄砲を放ち、矢を飛ばした。謙信公はこの有様をご覧になって、「あれ! 者ども、村上は我が客なり、討たすな!救え」と下知(げじ)した。
保科弾正「槍弾正」、真田弾正「鬼弾正」の異名をとる
この時、武田方に保科弾正忠正直、朱の柄の槍の石突を握って振り出し、吹く風のごとくに飛び来る。朱の柄の槍は陪臣(直参でない、「また家来」)には許さず。松平肥後守殿、土井大炊頭(どいおおいのかみ)殿の道具は朱の柄の槍である。正直は件の槍を馬上に構え、大盤石をも貫く勇気で突き落とし、突き伏せ突き崩し突き破り、群に抽(ぬき)んで千変万化に現れて、少しの間に二十三騎を突き留める。これを人々は誉めて保科弾正を「槍弾正」※といった。
続く真田弾正忠幸隆は、四尺ばかりの太刀を振り立て、磯打つ波のように切りまくり、縦横無尽に追いまわし、血煙立てて戦った。その様子は人倫を放れ清々として、まさに鬼神ともいうべき奮戦ぶり。敵二十一騎を切り伏せた。これを賞して真田弾正を「鬼弾正」と称した。
※保科正直の父、正俊も「槍弾正」の異名がある。
真田・保科、二度駈けの戦で手柄を立てる
これに対し上杉方で大剛の者と呼ばれた高梨源三郎頼実、弟・源吾頼治は馬を馳せて来て、真田と渡り合う。源三郎が槍を切り落とされてひるんだすきに、真田が飛びかかり拝み討ちにして、馬から落とし、すかさず祢津長右衛門が源三郎の首を取る。これを見た弟の源吾は、太刀の覚えあれば、討ち物で叶うまいと組みついた。真田は少しもひるまず「こりゃ!こざかし」とふりほどき、組み合った。互いに精根限りに揉み合い、馬より落ち、源吾が上になったかと見えたところ、保科弾正が槍を投げ突いた。槍は源吾の膝頭に突き通り、ひるむところを真田は下より跳ね返り、首を掻き取った。真田と保科は互いに会釈し、馬にて返ろうとするが、上杉方の六百余人、引かせはせじと追い駈け来る。
保科・真田は、敵に後ろを見せるものかと取って返して勇猛を振(る)って八方にまわり切り立てれば、さしもの越後勢もしどろになって引き返す。
やがて西山に日も没したので、双方軍を引いた。真田、保科両将の二度駈けの戦は比類のない手柄であった。
二.謙信御難のこと
甲州軍の面々、上杉に対して計略をめぐらす
三尺の剣の光は、氷手にあり。一張の弓の勢いは月心に当たるとは、上杉謙信公のことであろう。竹に阿吽(あうん)の雀※の陣幕を張り、黒地に金にて菊桐の旗を押し立てた謙信公の御陣営には、六匁玉の鉄砲が二百挺。各将たちが堂々として備え、鳴りを静めて控えた。
時に、甲州の軍奉行の面々は、「去年十一月、雨の宮の戦では味方の負けとなったが、今度はこちらが計略をめぐらせ、敵を悩ませてはいかがなものだろうか」と評議した。すると山本勘助道鬼が、「千曲川の端に一丈ばかりの葭(あし)が茂り、日の影も通らず、伏勢するには好都合の場がある。五百人づつを七か所に伏せて、謙信をここまで追い出し、雌雄を決しよう」という。
山形(山県)三郎兵衛は、「七か所に伏勢するよりは、よい一か所を選んで伏兵を差し置いた方が利があろう」という。山本は頭を振り、「いやいや、義経の軍法は、百首の中に百人を十か所に置く備えこそ、千の敵にも切り勝つと教えておられる」というので、皆々この意見に賛同した。
しかし、「どのようにして大将の謙信を引き出すのか」といえば、山本勘助は、「謙信は生来剛力で、武術の早業は達人。よい大将と見れば、自身の働きを好まれる。典厩殿を先に立てれば、謙信の出馬は間違いなし。味方は一応戦うふりをして逃げて見せれば、上杉殿追い来るは必定。この時、伏勢をもって討ち破ろうぞ」という。各々、「さすが勘助殿、あっぱれ神変の術」と感心した。御本陣の信玄公もはなはだ感心され、「急ぎ出陣すべし」と下知した。
※竹に阿吽の雀……竹に飛び雀。口を開いた雀と口を閉じた雀を表した上杉氏の家紋。
典厩信繁、謙信を誘い出すべく先陣に立つ
命により、御舎弟・典厩信繁が先陣の采配を取った。随(したが)う人々には、馬場民部少輔、小笠原若狭守、板垣弥次郎、室賀出羽一葉軒、跡には山形(山県)三郎兵衛、跡部大炊介、山本勘助入道ら、かれこれ五千余り。上杉方は斥候の知らせを受け、わざと鳴りを潜めた。
武田方先駆けの馬場、小笠原は、何の会釈もなく鯨波の声(ときのこえ※)を発して向こう備えに切って懸る。待ちうけていた上杉方は、用意の陣筒二百挺を一斉に撃ち放った。武田の先手は、たちまち血煙立って、浮き足となる。そこで山本勘助は「数代のご厚恩も一日のご用にたてんためではないか。主君の報恩に討死し、名を後代に残そうぞ!」と、声を嗄(か)らして味方を励ました。そのかけ声に、甲州勢にわかに勇気沸き起こり、力足を踏んで戦う。
血気盛んな武田典厩信繁、馬を進め、太刀抜きかざして戦う。大将軍を敵に見られまいと、小笠原・板垣・室賀は典厩とかけ離れて相戦う。この戦いの場が、南原の東側砥部の南向こう、いま合戦場といわれるところで、俗に勘助宮(長野市 南長野運動公園一帯の地)という。
※鯨波の声……ときのこえ。げいはのこえ。大勢が一斉に発する声
勘助の計略にかかり、謙信公、八方を囲まれる
典厩と見ると謙信公はみずから切って出られた。従う馬まわりには強力の士三十二騎。上杉兵は典厩目懸けて切りかかり、両軍入り乱れ、双方討たれる者数知らず。大山をも脇挟む勢いの甲州勢も、終に打ち負けて敗走しはじめる。上杉軍はこれを追い詰め、千曲川まで追っていく。
山本勘助は、計略通りと合図の陣鐘をつき鳴らせば、「えいえい、わいわい」と七か所より不意に顕れ出た伏勢、三千余人八方より隙間もなく鉄砲を撃ちかけ取り潰す。上杉方は網代の魚のように逃げ場なく見えた。大将を囲んで討たれる者七百余人。武田方は謙信目懸け、突っ懸け挑みかかったので、謙信公すでに危うく見えた。
鬼小次郎助宗、甲州勢を寄せつけず
その時、謙信公の向こうに只一騎、鬼小次郎助宗が、稲妻のごとくに太刀を振り立て、一世の大事ここにありと駆け寄った。その果敢な戦いぶりは、仁王の荒れくるったように駆けまわり、八方に眼を配って敵を寄せつけず。血は顔面に流れて、阿修羅のような形相となり、いや増す勇気ふんぶんの鬼小次郎を武田軍は取り囲んだ。
謙信公も甲州勢をものともせず、自ら囲みを切り抜け切り抜け、神明の森(篠ノ井神明・富部御厨岡神明神社)へ馬を飛ばす。上杉軍は大崩れして謙信公を見失って、丹波島の方へ後退した。鬼小次郎ばかりは、君を案じ、悪鬼を押さえる鍾馗(しょうき)のごとき奮戦である。武田方は、大将を討ちもらし、残念と神明の方へ追って行く。
謙信公は、主従五騎にて犀川の方へ落ち行くが、追いすがる武田軍は、津波の押し寄せるようであった。
宇佐美・山本、押し寄せる敵勢から主君を守る
時に大塚、小島田の間に後陣していた宇佐美駿河守、山本帯刀両人は、君を迎えて守り、八百余人丸備えになって敵を待つ。
宇佐美駿河守定行は、東三十三か国に三人の勇士に数えられていた。すなわち、武田に馬場美濃守、徳川に本多平八郎忠勝、長尾に宇佐美駿河守と誉められる勇士である。定行の眼中は真っ赤になって見開き、白髪は逆立ち荒れまわる。甲州勢は一人として向こうに立つ者がない。 また、山本帯刀重頼は、大長刀にて武田勢の真ん中を切ってまわり、たちまち十七騎を薙ぎ落とし、巴の字に乗りまわし、卍に蹄を飛ばして戦う。
宇佐美と山本が殿(しんがり)として残ったので、謙信公は犀川を越えようとされた。日も暮れて丹波島へは出難く、川下の綱島にまわられた。何とかして川を渡ろうと案じ煩っていたところへ、鬼小次郎、跡を慕って駈けつける。
主君のご無事を大いに悦び、「拙者、瀬踏み申そう」と、鬼小次郎は重い鎧のまま川へ飛び込み向こう岸まで渡り、また取って返した。そして「川は浅うござる」と謙信公の御馬の轡(くつわ)に手を懸け、向こう岸へ渡った。足を踏み損じて流された長井源四郎も、鬼小次郎が引きとめ、差し上げて渡った。向こう岸についた謙信公は野陣を張り、大篝火を五か所にて焚き立てられた(この場所は長野市上高田・下高田・高田の間で、長尾塚という。今誤って「ながう塚」という)。
武田軍、家法により八分の利にて軍を治める
「今日の大敗さえあるのに、さらに敵を恐れて退き行くも無念ぞ」と川中島に残った山本と宇佐美。謙信公もご案じなされたが、その夜は甲州兵も攻めて来なかった。宇佐美は翌朝犀川を渡り、敗軍を集めて越後へ帰った。武田の家法では、十分の勝を嫌い、八分の利にて軍を治めることとあるので、その夜、それ以上攻めることはしなかったのである。
卯の刻(午前五時ころ~七時ころ)よりの戦い十七度、六度は上杉の勝ち、十一度は武田の勝ちであった。武田方の討死数は千百十五人、手負い九百余人。上杉方の討死数は二千余人、手負い千八百余人であった。
三.小島弥太郎のこと
「三国一」の剛力者は、意地むさい大酒呑み
老子の言葉にもあるように、一般的に酒を好む者は意地むさい癖がある。 ここに上杉の家臣に小島弥太郎一忠(かずただ)という者がいた。彼を「鬼小島」と呼ぶのは、はなはだ剛力の者であったからである。謙信公は弥太郎の武勇を誉め「三国一」とご自筆の差物(さしもの※1)を下された。この弥太郎は至って大酒を好み、自分は倭(やまと)の飲中(いんちゅう)七賢※2と自称していた。
この頃、謙信公は、春日山城内の堀に水鳥が遊泳するのも要害の一つとして、堀の水鳥の捕獲を禁ずる制札を建てさせた。小島弥太郎はある時、番所詰の同僚に「今夜は拙者の宅で酒宴を開き、杯を傾けようではないか。ついては各々方は二升樽を持参していただき、肴(さかな)は拙者が珍味を用意しよう」と誘った。
同僚は銘々二升樽を提げて弥太郎宅にやって来た。弥太郎は樽を算(かぞ)え、一斗六升の酒に不足なしと悦んだが、皆々はまだ珍味の肴がないことに不審を抱き、「ご用意の肴を見たいと存ずる」と問うた。弥太郎は笑って、「武士は虚言申そうや。暫くお待ちあれ」というとそのまま鉄砲を引っ提げて出て行った。
※1)差物…具足の背の受け筒に差し、戦場での目印にした小旗、または飾りの作り物。旗差物。
※2)七賢…「竹林の七賢」。中国晋代、世俗を避けて竹林で音楽と酒を楽しみ、清談に耽った七人の隠者。
弥太郎、ご禁制の鴨を獲って肴とす
しばらくすると弥太郎は獲物の鴨を鉄砲に引っ懸け戻って来た。朋輩八人は手を打ち、「これは、これは、亭主のお働き」と誉め、直ちに手分けして肴の調理をした。
準備も整い、これから酒盛りが始まろうとする時、ある者が「この鳥はどこで撃たれなされたのか」と尋ねると、弥太郎はにやっと笑って、「お堀の鴨でござる」という。皆な呆れて、「ご禁制の鳥を捕えるとは、狂気の沙汰よ。我々までもお咎(とが)めを蒙(こうむ)ろう」と後ずさりする。弥太郎は「これは各々はご存知ないこと。お咎めは弥太郎一人でござる。ご遠慮なく食べたまえ」というが、一人も食べる者はいない。弥太郎は一人で存分に呑み喰いし、その場に酔い伏した。八人の面々は、嫌気がさして、挨拶もそこそこに気分を悪くして立ち帰った。
謙信公、弥太郎に立腹するも、酒の科と許す
弥太郎は四、五日の酒を得たと大いに悦び、翌日隣家へ行き、御禁制の鳥を捕って食べた昨夜の出来事を臆面もなく語る。そのことがついには謙信公のお耳にも達し、大変ご立腹されて弥太郎をすぐに召された。弥太郎の妻は非常に驚き悲しんだが、弥太郎はいっこうに頓着なく御殿へ参上した。
出て来られた謙信公は、「法令を背く罪なれば、予が手討ちにいたす」と立腹された。その時、弥太郎は、「常に魚鳥に飽きるほど食べなくては精力落ちて、戦場で剛勇の働きはでき難いこと。この弥太郎、魚鳥を買いたくとも身上不如意で金銭ござらぬ。主人の物は家臣の物、ゆえにお堀の鳥を討ち申す。鳥一羽と侍一人と替えなさるは、ご主君のご損と存じますが、この身をご賢慮にお任せ申しましょう」と申し上げた。
謙信公は暫くご思案されて、そのまま内に入り、和田喜兵衛を召して弥太郎に聞こえるように「弥太郎めは憎い奴だが、君子はその罪を憎んでその人を憎まずとある。法度を破ったのは酒の科(とが)。この後は酒を慎むようにいたせと申しつけよ」と寛容に許された。
主君の心もわからぬ弥太郎に、妻、涙を流す
この日より弥太郎は毎夜鳥撃ちに出る。咎める者にも構わぬ夫の傍若無人の振舞いにたまりかねた妻は、「大将のご仁心にお心づきなされないのですか」と涙を流して酒を慎むよう諫めた。しかし、弥太郎は笑って、「戦場で一騎当千の士を鳥と命を替える愚将があろうか。夫の酒は一生の癖と思え。『史記』※にもあるように唐の詩人たちは酒を誉めて詩を作り、文を綴っている。酒に酔って肘を曲げて枕とするのが、我が楽しみなのだ」と耳を貸そうともしなかった。
※史記…中国の黄帝から前漢の武帝までのことを記した歴史書。
弥太郎の妻、夫のために着物を売り武具を揃える
時は弘治二年(1556)、川中島合戦が始まり、家中の面々は甲冑を吟味し、重代の太刀、長刀よとひしめく中に、弥太郎は笑って「戦場に行けば、好みの甲冑や武具は手に入る。我は真裸でも苦しくない」といって、何の用意もせず、ただ酒を呑むばかりであった。
こうした夫に献身的に尽くす妻の姿は気の毒で哀れであった。同輩は思い思いに綾羅(きら)を尽くす(身仕度を整える)中で、夫ばかりは素肌武者。夫に恥ずかしい思いをさせまいと案じた妻は、衣類を売って鎧、甲を調えた。それでもなお支度の不足を嘆き、嫁ぐ時、母から形見と贈られた唐の鏡を売ろうと取り出した。鏡に映る頬こけた吾が顔を見て、涙ながらに詠んだ歌は
今日の身と 見るに涙の 増す鏡 褻(な)れにし影を 人に語るな
(「今の我が身を見るにつけても、悲しく涙が増すばかりです。このような悲しい惨めな容姿をどうか人に語らないで下さい」という心境を詠んだ歌)
謙信公は弥太郎の妻が詠んだこの歌を聴かれ、あっぱれの名歌よ、貞女よとお誉めになり、深く感動された。
謙信公、弥太郎に自分の甲冑を与え、妻をいたわるよう諭す
春日山城には信州川中島へ出陣する武将たちの勢揃いが始まった。騎馬の面々は華やかに着飾り、謙信公は二の丸櫓よりご覧になってご機嫌よく出陣の酒宴を催された。その中ではなはだ見苦しく登城して来る鬼小島弥太郎を見かねて、召された。
「汝が日頃の行跡は不届きだが、妻が貞節不便なことよ。彼女が詠んだ歌に予は落涙させられた。これがゆえ、予が着替えの鎧、冑、馬までお前に贈ろうぞ」と武具を揃えて与えた。弥太郎は急ぎ姿を改め、厳(いか)めしげに着飾って、妻の待つ家に帰ったのだった。
臆病者の初鹿野伝右衛門、戦場にて鬼神と化し、香車と成る
武田の家臣に初鹿野伝右衛門直茂[はじかのでんえもんなおしげ]という士がいる。日ごろは物静かで、臆病に見られているが、戦場では鬼神のように勇猛に戦った。
ある時、伝右衛門は誤ってお茶坊主の腰の物を踏んでしまい、怒ったお茶坊主に扇子(せんす)で額をぱしっと打たれた。伝右衛門、畳にひれ伏し謝り、何事もなく済んだ。これを見た朋輩らは、「初鹿野は武勇の者というのは偽りよ」と笑い合った。これを聞いた伝右衛門は、「我が命は、主君のご用に立てるが命。彼と差し違えても手柄にならず、切り捨てても誉れにならず。もし油断して討たれた時は損恥よ。戦場での敵には堪忍できぬが、ふだんのでき事はできるだけ堪忍なることが肝要よ」と笑ったという。
この伝右衛門、戦場では「香車伝右衛門」と異称された。伝右衛門は冑の前立ち物に将棋の駒「香車」をつける。香車は、向こうへばっかり進み、後へは引かぬものである。しかし敵地に入れば「成金」となって後へ返る。初鹿野は敵の首を取らぬうちは、一足も引き退かず。手柄をした時は冑の「香車駒」を「成金駒」と裏を表に返して、味方の陣へ引き取る。ゆえに、香車と異称を受けたのである。
四.三度目合戦のこと
信玄公、千曲川の大水を見て、夜討ちを命ず
弘治二年(1556)三月、甲越両軍は馬を出して、千曲川を隔てて武田方は雨の宮、上杉方は小森十二宮(こもりじゅうにのみや/長野市篠ノ井東福寺十二宮)に陣を張る。時に春雨が数日降り続き、千曲川は大水となる。川越えの戦は思いもよらず、両軍はいたずらに川を眺めて対陣する。
ある時、信玄公は水練(※すいれん/水泳の達人)の者に水嵩(みずかさ)を計らせたところ、三、四尺も減水していた。そこで、高坂弾正忠・栗田淡路守・小山田主計・山形(山県)三郎兵衛・馬場民部少輔の五大将を海津城に招集した。信玄公は一同に、「今夜この千曲川を越えて、敵陣へ夜討ちをせよ」と申しつけた。五大将は返答に困り、地の利に詳しい栗田淡路守が進み出て、「このような嵩水では、水底に大石が流れ、人馬の足立ちもできませぬ。その上、夜分のことではなはだ危険でござる。今一日もお待ちを」と申し上げた。
しかし信玄公は「昔、源義経の鵯越(ひよどりごえ)の坂落とし、新田義貞の鎌倉攻めは、各々不意に攻めかけたから勝利した。今嵩水なればこそ、敵も油断あるだろう。常水なら勝利は難しい。水練の者を黄昏(たそがれ)に川向こうへ渡し、大綱を水面に幾筋も張り、綱の間に馬を入れて向こうへ渡せよ。馬のない者は、昼より筏(いかだ)を組んで綱に取りつけ渡るべし」と命じた。
皆々相心得て筏の用意をはじめた。
山本帯刀、武田の動きを見て夜討ちを察する
上杉謙信公は、ご陣まわりと称して、山本帯刀を召し連れて、軍兵を励ましていた。その折り、雨で山の花が萎(しぼ)む有様に興を催され、「恵心僧都(えしんそうず)※の詞に、『桃李の春風に開くも、これに習って輪廻五趣の因となる。蘭菊の夜露に萎む。これを請くれば、また流転三有の業を結ぶ』とあるように、どうして春秋の景色を見過ごすことができようか」と仰せられた。
その時、山本帯刀は川の向こうをよくよく見つめ、「敵は在家を壊してござる。これは筏を組むため、戦は間近いと存じまする」と申し上げた。謙信公笑われて、「よくぞ見つけたことよ。敵は今夜に夜討ちをかける用意だろう。しかし、このことは味方に知らせてはならぬ。味方が騒げば、敵も気づいて夜討ちを中止するだろう」と申されて、陣所に帰られた。時は三月二十日である。
※恵心僧都…平安時代の天台宗の僧。本名・源信。『往生要集』を著し、日本浄土教の祖とされる。
山本、謙信公のご賢慮ある戦法にひたすら感動す
日も暮れて、戌の刻過ぎ(午後十一時ころ)、上杉方では宇佐美駿河守が陣まわりの時、一人の曲者を引っ捕らえ、本陣へ連行した。
謙信公が彼の曲者を問いつめれば、「今宵九つの鐘(午前零時ころ)を合図に越後の陣に火をかけ、火の手を合図に甲州勢が川を渡り、夜討ちをかける手はずである」と白状した。「仕損じて捕われの身となってしまったからには、片時も早く首をおはね下され」という曲者の返答に謙信公は大いに感心され、宇佐美に「一人で敵陣に忍び来るほどの勇士を、情けなく処刑するのはいかがかな。彼の望む通り陣所に火をかけさせ、帰すがよかろう」と申された。
曲者、「それはご恩を仇に相なる儀。ご慈悲のご賢慮を伺いたい」と尋ねたところ、謙信公はにこっと顔をほころばせ、「これは一つの戦法である。その方に火をかけさせ、時分はよしと攻め寄せる甲州勢を欺き、討つ計略である」といわれる。山本帯刀はこの言葉に、「敵の戦法をそのまま用いて利を得ること、太公望が秘勝の術。その上、忍びの者の命を助け帰されることは、仁あって、剛毅備わっておられる」と感動するばかりであった。
その時、宇佐美、「そのようなまわりくどい戦法をとらずとも、敵が川を渡る半途を見定めて、弓・鉄砲で撃ったらいかがなものか」といえば、山本帯刀頭を振って、「その儀、全くご無用。兵書に『敵水中にある時、これに向かうこと難い』とござる。大河を渡ろうと乗り込む勢いは、猛虎荒れたごとくである。すでに田原又太郎※1、また佐々木四郎高綱、梶原源太景季※2でも明らかなように、矢を射掛けても、水中にて討ちもらしていることを知るべきである。川を越えて一安心と心を緩めた隙を討ってかかれば勝利は疑いない」と申した。一同はもっともなことと同意した。
※1)田原又太郎…足利忠綱。治承4年(1180年)源頼政と平家方の戦いで、忠綱は宇治川の急流を渡る作戦を敢行し、平家方を勝利に導いた。
※2)佐々木四郎高綱・梶原源太景季…寿永3年(1184)源義経と木曾義仲による宇治川の戦いで、義経軍の二人は先陣を争い、矢の降りそそぐ中、急流を渡って味方を鼓舞し、義仲軍を討ち破った。
五.夜合戦のこと
甲州勢、まんまと上杉の罠にかかる
「春宵一刻値千金」と大宮人(おおみやびと)は春の宵を称讃している。今夜は亥の中(午後十一時ころ)の月もおぼろである。甲州方は、水練の者に案内させ、猫ヵ瀬(猫ヶ瀬。長野市篠ノ井杵淵)の下流の水面に綱を幾筋となく張らせた。
上杉方では、生け捕りの忍びの者に、わざと騒がせ敵をおびき寄せるため、三か所に火をつけさせて帰した。その火煙を見て甲州勢は首尾よしと、引き口も大事と川端に勢を残して広瀬、猫ヶ瀬を渡って攻撃を開始した。その手は高坂弾正・清野常陸・落合伊勢である。夜陰ゆえ、同士討ちを避ける合詞は「二五七二五十(にごなにごと)」と定め、鎧の袖に白紙の袖印をつけ馬を進めた。
上杉先手の陣所三か所から上がる火煙に、敵は混乱と見て取った甲州勢は、この時ぞと一度にどっと切って入る。上杉方は「まんまと網にかかった獲物の夜討ちぞ」と突いてかかり、応戦する。思惑はずれた甲州方は、しどろもどろに後退する。
高坂弾正、「逃げ弾正」の汚名をそそぐ
高坂弾正は、先の戦でつけられた「逃げ弾正」の恥をそそぐはこの時とばかり、主従百余人突いて懸る。越後方の針崎七郎、名立左衛門らは、「あっぱれ勇士、推参あれ!」と両人目くばせして討ってかかるが、弾正の突きだす槍に突かれ、次々と倒れる。弾正は、今のままでは勝利なしと後へ返して川端に滞まり、味方の逃げ来るのを救おうと構えた。
清野常陸・落合伊勢は、上杉の本陣目指して切り込もうと、遥かに進んだところ、不意に撃ちかける鉄砲二百挺、忽ち(たちまち)甲州勢は夥しく撃ち倒された。
謙信公の鋭き一太刀、鬼小島の手練の槍業
謙信公は大胆不敵の勇将なれば、竹俣兼光(たけまたかねみつ)の剣※を振り立て、放生月毛(ほうしょうつきげ)の駒に跨り、敵を選んで討ち取らんと駈けまわる。この時、大将とも知らずに切りつけてきた甲州方の輪形月平太夫は、肩先より乳の下まで切り下げられて討死した。
ここにまた、越後方後陣より駈け来たのは、鬼小島弥太郎一忠。謙信公より授かった大鎧と甲を身につけ、謙信公直筆の「三国一」の差物、朱の柄の槍を引っ提げ、「鬼小島なるぞ!」と名乗って敵の中を割って入る。無双の手の内、手錬(練)の手本で、即時に十六騎を突きとめる。
この時、清野常陸の主従九騎が弥太郎に切りかかるが、秘術を尽す槍の早業、早速の働きに士卒は残らず討たれ、清野も立ち向かったが、鋭く突きかける槍先に、これはかなうまいと広瀬の方へ逃れ行く。
これを見た上杉方の甘粕・山本・石川らは追いかけるが、引き口には高坂・板垣・小山田が控え、双方討ったり、討たれたりして戦ううちに、夜はほのぼの明け渡り、村々の鳥の鳴き声とともに、甲越両軍は兵を引いた。
※備前・長船兼光の作といわれる名刀。揚北(あがきた)衆・竹俣慶綱が上杉謙信に献上したとされる。
越軍、長雨により、久米路を越えて引き上げる
この激戦場になった辺りを「合戦場(かっせんば)」といい、今この地名は小森村(長野市篠ノ井小森)・戸部村(同市川中島町戸部)・原村(同市川中島町南原)にある。
霖雨(りんう)暇なく降り続き、千曲川の水は岸辺を浸して溯り、山を押し崩す勢いであった。このため、越後方は仕方なく自国へと兵を引いた。この時は水内(みのち)の久米路(くめじ・上水内郡信州新町)の橋に至って犀川を渡って、戸隠の方を経由して越後へと引いて行った。
甲州方の討死数は千三百三十余人、手負い五百余人。越後方の討死は六百十余人、手負い七百余人であった。