川中島の戦い・主要人物

山本勘助晴幸(やまもと・かんすけ・はるゆき)

[?-1561]
城づくり、兵法に長け、諸国の事情にも通じた名軍師

武田信玄の知恵袋、謀将、城造りの名人、などと称讃される山本勘助。甲州流兵法の祖といわれ、隻眼(せきがん。目が片方しか見えないこと)で手足が不自由ながら築城術と兵法にひいでた名軍師として、武田二十四将の中でも高い人気を誇っている。

『甲越信戦録』では、勘助は三河牛窪(みかわうしくぼ・愛知県豊橋市)の侍で、諸国を歴訪し、戦国大名の事情に精通し、築城法をはじめ、文武百般に通じていたとしている。天文12年(1543)、その才覚を見込んだ板垣信方(いたがき・のぶかた)の推挙により武田晴信(はるのぶ・信玄)に召し抱えられ、足軽隊将となる。

風貌異形の勘助を晴信(信玄)は気にもせず重用したことから、その恩義に報いるため、己のすべてを主君に捧げようと決意。策略家として次々と城を落とし、信濃攻略においてその才能を開花させていった。永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、妻女山(さいじょざん)に籠もる上杉軍に対して啄木鳥(きつつき)の戦法を進言。しかし謙信に裏をかかれ、信玄本陣を窮地に陥らせてしまう。責任を感じた勘助は、信玄を守るため上杉軍に決死の討ち入りを図るが、柿崎景家(かきざき・かげいえ)隊により討ち取られ、泥真木明神(どろまきみょうじん、泥木明神、勘助宮跡)付近において69歳の生涯を閉じたという。

「月のような一眼」を持った伝説の人物

 謀殺した諏訪頼重(すわ・よりしげ)の娘“由布姫(ゆうひめ)”を側室にと、重臣たちを説き伏せたのも勘助であり、信玄は全幅の信頼を置いていた。晴信(信玄)の一字を受けて“山本勘助晴幸(はるゆき)”と称し、信玄が出家したときには同じく出家して“道鬼(どうき)”と名乗った。築城術にも長け、川中島の戦いに備えた海津城をはじめ、由布姫の子勝頼(かつより)が城主となった高遠城、村上義清(むらかみ・よしきよ)攻略・上州進出の足がかりとなる小諸城の縄張りなども勘助によるものとされ、その技術は馬場信春(ばば・のぶはる)に伝えた。「万人の眼は星のようで、勘助の一眼は月のようである」と信玄は評していたという。

勘助の生誕地は静岡県の富士宮あるいは愛知県の豊橋など諸説あり、山梨県(甲斐)、愛知県(三河)、静岡県(駿河)、長野県(信濃)には勘助にまつわる伝承が数多く残されている。討ち死にした川中島古戦場付近には、勘助の墓をはじめ、胴合橋勘助宮などのゆかりの地が点在している。