川中島の戦い・主要人物
上杉謙信(うえすぎ・けんしん)
[1530-1578]
- 「軍神」、「越後の虎」…様々な異名を持つ戦の天才
- 神仏への厚い信仰心、義を重んじた謙信
天文22年(1553)武田信玄に追われた村上義清(むらかみ・よしきよ)らの求めに応じ信濃へ出兵した謙信は、武田信玄と川中島で5度にわたり戦った。川中島の合戦を通して生涯の宿敵であった信玄との間には友情めいたものがあったのではないか、という推測もあり、信玄の死を伝え聞いた時には「惜しい男をなくした」と箸を落としたという。 敵国甲斐の領民に塩を送った逸話(※「首塚」の紹介文参照)でも知られるように、義を重んじ、私利私欲では動かなかったという謙信。青年期までは曹洞宗の古刹・林泉寺(りんせんじ・新潟県上越市)で名僧天室光育(てんしつこういく)から禅を学び、後に臨済宗大徳寺にも参禅、晩年には真言宗に傾倒し高野山で位階も受けるほど、神仏への深い信仰心をもっていた。
自らをその化身と仰ぐ毘沙門天(びしゃもんてん)の「毘」の旗織をはためかせ信濃から北陸、関東へと進出するが、天正6年(1578)、天下への夢を果たすべく織田信長挟撃を画して戦を進めているなか、脳溢血(脳いっけつ)で倒れて49年の短い生涯を閉じた。戦国時代を疾風のように駆け抜けた合戦の天才であった。
※毘沙門天 多聞天。仏教の守護神で、北方を守る四天王の一人。七福神の一人ともされ、悪魔を成敗する武装した姿で戦国期には武神とあがめられた。