読みは「どうあいばし」。地元では「どあいばし」とも言う。戦死した山本勘助の首と胴を合わせたという伝説の場所。
永禄4年(1561)の戦いで「啄木鳥(きつつき)の戦法」を見破られた山本勘助は、2百の手勢で敵に斬りこんだが、泥真木明神(泥木明神、勘助宮跡)付近で討ち死にし、その首は敵兵に奪われた。妻女山(さいじょさん)から転進してきた武田軍が加勢し、上杉勢が退却をはじめるころ、家来たちは主君の首を奪い返す追跡が始まった。家来10人ほどが取り戻してきた勘助の首は、いずれも風貌が変わり、血に染まっていて、どの首が主人かわからない。血まみれの首を洗って戦場からかついできた胴体と首を一つずつ合わせ、ようやく勘助の首を確定した。2キロも離ればなれになっていた首と胴体が合ったというのは、勘助の首が胴体を呼び寄せたに違いないという。
岡澤先生の史跡解説
相手を計略にかけて欺いたり、勘に頼って万一の成功をねらうこと、または、その人を「山勘」という。この山勘の語源は、武田信玄に仕えた軍略家山本勘助から出た熟語という(『大言海』『日本国語大辞典』『日本古典語典』)。
山本勘助の首と胴を合わせたところから「胴合」の地名がついたという。勘助の胴体と首は橋のたもとに埋葬されたが、その後、千曲川の川筋が変わり、墳墓は川中となった。寛永のころ(1624〜43)対岸の寺尾村高畑に移葬された(『朝陽館漫筆』『甲越信戦録』)。洪水のたびごとに橋の流亡に苦しんだ里人たちが、胴合いの民話にある死んでも胴を呼び寄せた勘助の不思議な能力にすがって橋の傍らに首と胴を埋葬したものであろうか……。
「胴合橋」は明治の末ころまでは、松代善光寺道(長野道)に架けられていた橋である。『杵淵村誌』に「長野道は松代より長野に行く道で、無等道路に属す。村の北の方、西寺尾村岡神明組境より東南の方、西寺尾村境に至る。長さ550m・幅2.7m」とある。「胴合橋」については「長野道に属す。村の東北の方、字胴合の本田堰に架かる。平生は水少ない。堰幅は1.8m、橋長さ2.4m・幅1.5m、石造り」とある。長野道は「胴合橋」から岡神明社(浅井洌歌碑建立地)前を経て、史跡公園南側の市道のほぼ中央部へと通じていた。一時「胴合橋」は姿を消したが、平成15年(2003)善光寺御開帳にあわせ、整備復元された。
- アクセス
- 長野ICより車約5分