川中島の戦い・主要人物

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上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)

[大永3年(1523)~天正7年(1579)]
北条氏の圧迫を受け、越後へ追い立てられた関東管領

関東管領上杉憲房[うえすぎ・のりふさ]の子。享禄4年(1531)上野国平井城に関東管領の職を継ぐ。北条氏康[ほうじょう・うじやす]に圧迫され、天文15年(1546)に北条方の河越城[かわごえじょう]を大軍で包囲するが、奇襲にあって大敗(「河越夜戦」)。この戦いを機に北条氏は勢力を拡大し、憲政は次第に北関東へと追い詰められいく。天文21年(1552)北条氏に平井城を攻略された憲政は、長尾景虎[ながお・かげとら](上杉謙信)を頼り、越後に逃れた。その後、長尾景虎を養子として鎌倉鶴岡八幡宮で管領職を譲り、上杉政虎[うえすぎ・まさとら]と名乗らせ隠退する。

上杉謙信の養子となった景虎と景勝による跡目相続の争い(「御館[おたて]の乱」)に巻き込まれ、天正7年(1579)、武田勝頼[たけだ・かつより]の支援を受けた景勝によって討たれる。享年57歳。

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上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)

[弘治元年(1555)~元和9年(1623)]
顕景・喜平次
上杉家第二代の家督を実力で獲得。家臣たちも恐れた厳粛な剛将

父は長尾政景の次男。母は長尾為景の娘(上杉謙信の姉)、仙桃院(仙洞院・せんとういん)。幼名は卯松(うのまつ)と称し、政景の没後、上杉謙信の養子となって、天正3年(1575)に名を景勝と改め、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に叙任された。正室は武田勝頼の妹・菊姫。

小柄ではあったが、容姿秀麗で、人となりは寡黙で笑うことは少なく、勇猛にして大胆。その厳格さに家臣たちは敵よりも景勝を恐れたという。

天正6年(1578)謙信の死後、北条氏からの養子の三郎景虎と家督相続をめぐって争い、国内を二分にして戦った。このとき信州出身の豪族たちも二派に分かれ、村上国清、岩井昌能父子、島津左京亮らは景勝を支援した。「御館(おたて)の乱」と呼ばれるこの争いで、景勝はいち早く春日山城を占拠し、武田勝頼と同盟するなどの策により、天正8年(1580)三郎景虎に勝利。上杉家を継承し、越後・佐渡・越中・能登を領する戦国大名となった。

武田・織田氏滅亡後、北信濃に侵攻。川中島四郡を支配する

天正10年(1582)信濃の大半を支配していた武田勝頼が織田信長の侵攻で自害し、その織田信長も本能寺で倒れたことにより、景勝は北信濃に進出。飯山城と海津城を掌握し、川中島地方を制圧した。その後、景勝は長沼城に島津忠直、また海津城には村上景国を配して北信四郡(北信濃の高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡を指す)支配の拠点とし、領国の支配体制を固めた。これにより上杉方の北信濃諸将は旧領を回復する。

天正13年(1585)には海津城に信濃高井郡の土豪だった須田満親(すだみつちか)を入城させ、さらに真田昌幸との同盟により、北信四郡の東から東南部の境界を確立。こうして度重なる合戦の舞台となった川中島は、ようやく安定化へと向かう。

豊臣秀吉、そして徳川家康に臣従し、上杉米沢藩の初代藩主となる

天正14年(1586)、景勝は上洛して豊臣秀吉に臣下の礼をとり、以後豊臣政権に参画。五大老の一人となる。慶長3年(1598)、秀吉の命で越後から会津120万石に転封となり、このとき、信濃の武将たちの多くは景勝に従って旧領を去った。秀吉の死後は、徳川家康に降り、出羽米沢30万石へと減封されるが、直江兼続ら家臣とともに米沢藩政の基礎を築き、以後、米沢は明治維新まで上杉氏歴代の城下町として栄えた。

景勝は元和9年(1623)3月、米沢城で逝去。享年69歳。