川中島の戦い・主要人物

武田信玄(たけだ・しんげん)

[1521-1573]
学問好きの文学青年から戦国大名へ

甲斐源氏の一門・武田家の嫡男で、甲斐国内の統一に成功した武田信虎(たけだ・のぶとら)と大井信達(おおい・のぶたつ)の娘(大井夫人)との間に大永元年(1521)11月誕生した。幼名は太郎または勝千代(かつちよ)といい、元服後は晴信(はるのぶ)、のち出家して信玄と名乗った。

幼年から長禅寺の禅僧・岐秀元伯(ぎしゅう・げんぱく)から禅学や兵法を学び、学問好きの文学青年として成長。そんな信玄に対し、武徳を尊ぶ父信虎は疎んずるようになる。信玄はこのころには機略に富み人の心を掌握する術に長けていたという。

天文10年(1541)には父信虎を駿河の今川義元のもとへ国外追放して家督を得、翌年、諏訪攻略を手はじめに信濃へ侵攻する。諏訪頼重(すわ・よりしげ)、高遠頼継(たかとお・よりつぐ)、小笠原長時(おがさわら・ながとき)、村上義清(むらかみ・よしきよ)といった信濃の豪族との戦いを制し、甲斐と信濃の大部分を領する戦国大名となった。

川中島の戦いと信玄

信玄に追われた豪族たちの請願により信濃へと出兵した越後の上杉謙信とは、川中島を合戦場として11年にわたる5度の戦いが繰り広げられた。戦国史上最大の激戦といわれる永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、妻女山に布陣していた上杉謙信に「啄木鳥(きつつき)の戦法」を見破られ、弟の武田典廐信繁(たけだてんきゅうのぶしげ)、山本勘助らを失った。

川中島の戦い以降、北信濃のほとんどを掌握した後、上野、駿河、遠江への侵略を開始し、元亀3年(1572)の三方ケ原の合戦では徳川・織田の連合軍に大勝。上洛作戦を図るがその途上の元亀4年(1573)4月、「3年間は喪を秘し兵を休めるよう」と遺言を残し、伊那郡駒場(こまば)で息を引き取る。享年53歳。信玄亡き後、武田家は、諏訪頼重の息女(由布姫・ゆうひめ)との子・勝頼(かつより)が家督を相続した。

戦国最強の武士団を作り上げた人間性

信玄は、和歌や詩、絵画に優れた才をもち、古代中国の兵書『孫子(そんし)』を好んで読んだという。「人は城、人は石垣、人は堀……」とする信玄は家臣を重んじ、その人間性にひかれて山本勘助や真田幸隆といった優秀な人材が集まり、「風林火山」の孫子旗と諏訪法性旗(すわほっしょうき)の下、戦国最強と喧伝される武士団をつくりあげた。

また、善光寺如来を甲府に移し甲斐善光寺を建立し、戸隠神社をはじめ各地の社寺に戦勝祈願状を納めるなど神仏に対する信仰も篤く、ときにはそれを外交戦略に利用する現実的な軍略家でもあった。

内政においては、山本勘助の意見も反映されたと伝わる「甲州法度之次第」(分国法)の制定や税制・度量衡の統一、交通制度の整備、「信玄堤」に代表される治山治水、金山などの鉱山・森林資源の開発など、民政家としての卓越した業績を残している。