5度にわたって繰り広げられた信玄と謙信の川中島の戦いの中で、永禄4年(1561)の戦いの舞台になったのが八幡原。ここでの戦いが最も激しく、副将・武田典厩信繁、山本勘助ら勇将が戦死した。史跡公園の松林の中には古くからの八幡社が静かにたたずみ、境内には信玄・謙信両雄一騎討ちの像や三太刀七太刀之跡の碑、首塚などがある。
公園を囲むように桜が植えられ、花の時期は見事。芝生広場や池などが整備されて子どもたちの格好の遊び場ともなっている。隣接の長野市立博物館では、長野盆地の歴史と生活をテーマに出土品や資料を展示。プラネタリウムも併設されている。
岡澤先生の史跡解説
八幡原史跡公園(現・川中島古戦場史跡公園)は、史跡公園の北西端の八幡社地を核にして昭和47年(1972)に造成された。この八幡社は山本勘助が海津城を築くときに水除け八幡として、この地に勧請したと伝えている(『甲越信戦録』)。
また、明治40年(1907)の『小島田村神社明細帳』には、寛治年間(1087~94) 村上顕清(あききよ)が誉田別命(ほうだわけのみこと・応神天皇)を勧請創建し、これに因って、この地を八幡原(はちまんぱら)と称したとある(小島田役場文書)。
八幡社は永祿4年(1561)の第4次川中島の戦いのとき、武田信玄が八幡原に本陣を構え、激戦場になったため、社殿は破壊された。そこで信玄は海津城代高坂昌信(春日虎綱)に命じて社殿を再建させ、社領として約1haの土地を寄進した(『甲越信戦録』『小島田神社明細帳』より)。明和2年(1765)の小島田村上組検地帳に「八幡社地拾五間・弐拾弐間、壱反弐畝、村中。八幡原七拾五間・三拾三間、八反壱畝拾弐歩、村中」と記している。社地を含め八幡社周辺の約1ha土地を地元では今日も「ハチマンパラ」と呼称している。
現本殿は、上田市の生島足島神社が改築されたときの旧社殿を譲り受け、皇紀2600年記念事業として、昭和15年(1940)に移築したものという。現本殿前にある旧本殿は、平泉の中尊寺金色堂と同じく鞘堂構造である。
- アクセス
- 長野ICより車約7分