善光寺

本堂

源頼朝や北条一族にも篤い帰依(きえ)を受け、全国に広く信仰を集めていた大霊場。信玄は弘治元年(1555)に、ご本尊(一光三尊阿弥陀如来)はじめ什宝(じゅうほう…家宝として秘蔵するもの)、寺僧に至るまで善光寺を甲府に移した。善光寺信仰を権力のなかに取り込むことによって、自らを権威づけ、領国支配の手段にしようとしたのである。

武田氏滅亡後、ご本尊は、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉と渡り、流転を重ね、42年後の慶長3年(1598)、信濃に戻るという数奇な運命をたどった。大勧進(だいかんじん)の霊牌堂には、徳川家・真田(さなだ)家の位牌のほかに、信玄・謙信の位牌が並んで収められている。

宝永4年(1707)により再建された本堂(国宝)は、江戸時代中期の仏教建築を代表する傑作。約1400年の歴史を刻み続け、宗派を問わずすべての信徒を受けいれる庶民信仰の寺として、今も全国からの参詣者が絶えない。

岡澤先生の史跡解説

鎌倉時代に入ると、善光寺聖の遊行布教活動により、善光寺信仰は大衆化されていった。信玄、謙信の善光寺支配や善光寺仏の争奪は、こうした時代背景から生じた。

村上義清が上杉謙信を頼って越後に走ると、栗田城主・栗田永寿軒(鶴寿・かくじゅともいわれる。以下、「栗田氏」)もともに越後に逃れた。栗田氏は村上氏の支族で、歴代善光寺別当職を勤め、戸隠方面にも所領を有し、戸隠神社の別当職も兼ねていた。その後、永寿軒は信玄に帰参した。弘治元年(1555)の両軍犀川の対陣では、栗田氏は武田方について、善光寺の西、旭山城に入った。このとき、信玄は兵3千、弓8百、鉄砲3百を送り込んで横山城(長野市城山)の謙信を牽制させている(『妙法寺記』)。善光寺の本尊をはじめ、多くの寺僧が甲斐に移った背景には、永寿軒の強い影響があった。

※「永寿軒・えいじゅけん」は、栗田鶴寿の子孫。『長野市誌』『長野県歴史人物大事典』等の文献では、この時代「栗田鶴寿」が有力説のようだが、『甲陽軍鑑』『甲越信戦録』では「栗田永(栄)寿軒」となっている。

アクセス