首塚(甲越直戦之地の石碑)

甲越直戦之地の石碑

読みは「くびづか」、「こうえつじきせんのち」の石碑。永禄4年(1561)の決戦のあと、海津(かいづ)城将であった高坂弾正(こうさか・だんじょう)が、戦場に残された6千とも8千とも言われる遺体を敵味方なく集めて手厚く葬ったとされる塚。

義に篤い上杉謙信は高坂弾正の行動に感激し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と、北条・今川の包囲網によって塩を絶たれて困っていた甲斐の国に塩を送ることを決めたという逸話は、「敵に塩を送る」のルーツでもある。以前はこの附近にいくつもの首塚があったが、現在、塚が残るのは2つのみ。しかし、塚を壊して田畑にした者は、悪い病気にかかったり、気がふれてしまうこともあったという。

岡澤先生の史跡解説

現存している首塚は、「甲越直戦之地(こうえつじきせんのち)」の石碑が建っている徳本塚(とくほんづか)と史跡公園南西端の法印塚の2ヵ所のみである。徳本塚は周囲約45m・高さ1.6m、その上に福島安正(ふくしまやすまさ)陸軍少将揮毫の「甲越直戦之地」の石碑が建っている。この石碑が建てられる前は、徳本行者の六字名号碑が建っていたので「徳本塚」と呼ばれた。法印塚は周囲約55m・高さ約3m 、頂上に宥慶(ゆうけい)法印の筆塚がある。

福島安正は松本出身で、明治22年(1889)ドイツ公使館付武官の任期を終え、シベリアを単騎横断して帰国した。徳本は文化13年(1816)信州全域を巡行し、浄土教布教のかたわら念仏講を組織させた。八幡社地東隅に建てられている念仏塔は、文化13年(1816)6月14日に、社地西側の首塚上に建立され、徳本が川中島の戦いで陣没した将兵の供養をかねてこの地に来て開眼供養した念仏塔である(『応請摂化日鑑(おうじょうせっかにっかん)』)。首塚の北側にある結城 琢(ゆうきたくま・竹堂)の詩碑は「甲越直戦之地」の建碑を称賛した七言律詩で、「甲越直戦之地」の石碑建立と併せて、明治36年に建立された。

【結城 琢[ゆうきたくま](竹堂)の詩碑】
両雄決戦果何辺 形勝依然三百年
七劔三刀猶膾炙 越竒甲正久喧伝
鸞車駐蹕孤亭在 矛戟沈沙古廟全
最喜居人表遺跡 豊碑千尺擘青天

両雄決戦果たして何辺ぞ
形勝(けいしょう)依然たり三百年
七剱三刀(しちけんさんとう)猶ほ膾炙(なほ かいしゃ)
越は竒(き)にして甲は正たること久しく喧伝(けんでん)
鸞車駐蹕(らんしゃちゅうひつ)したる孤亭(こてい)在り
矛戟(ほうげき)は沙(すな)に沈みたれど古廟は全(まった)し
最喜(さいき)す居人(きょじん)遺跡を表す 豊碑千尺(ほうひせっじゃく)青天を擘(つらぬ)く

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