明徳元年(1390)に僧明徳が建立したとされ、武田の智将といわれた海津城主・高坂弾正忠の墓がある曹洞宗のお寺。高坂弾正の帰依が厚く、諸堂を修理して開基となった。
ご本尊は薬師如来。お堂には「酒飲み弥勒」の伝承を持つ弥勒菩薩も安置されている。本堂の裏には、ヒキガエルが産卵のために群集する「蛙合戦」の池などがある。
なお、映画『硫黄島からの手紙』で注目された栗林忠道中将(長野市松代町出身)の墓碑も建立されている。
岡澤先生の史跡解説
天正6年(1578)、高坂弾正忠虎綱(こうさかだんじょうちゅうとらつな・昌信)は海津城で病没し、彼の遺命で明徳寺に葬った。同寺には、『高坂弾正忠昌信伝記』一巻、弾正使用の槍など、弾正関係の遺物が多くある。墓地内には、弾正の墓をはじめ、家臣の小池主計(こいけしゅけい)の墓やアメリカ映画「硫黄島からの手紙」の主人公、栗林忠道(くりばやし・ただみち)大将の墓がある。
栗林大将は明治24年(1891)、長野市松代町西条欠(かけ)、栗林鶴治郎氏の次男として生れた。昭和19年(1944)、栗林中将は、小笠原方面軍最高指揮官に任ぜられ、硫黄島に赴任した。中将指揮下の陸軍兵力は、15,500人、外に海軍兵力7500人がいた。同20年2月19日、米軍の兵75,000人は、495 隻の艦砲射撃、航空機1,600機の空爆援護により、硫黄島に上陸を開始した。栗林中将を先頭に守備隊は頑強に抗戦した。22日の島の要地、摺鉢山(すりばちやま)の攻防戦は壮絶を極めた。この日に米軍の打ち込んだ砲弾は3万発余に達し、27日には日本兵は3500人余に減り、各部隊の指揮官、兵器の大半は失われた。3月17日、栗林中将は大本営に決別の電報と、「国のため重きつとめを果たしえて矢弾(やたま)尽き果て散るぞ悲しき」と辞世の歌を送った後、残った兵士8百人とともに総攻撃に出て玉砕した。栗林中将は、戦死公報とともに大将に昇進した。戦時中愛唱された「愛馬行進曲」は、栗林大将の作詩という。
硫黄島の激戦で、米軍の死傷兵は24,857人と記録されている。
- アクセス