葛山城跡

葛山全景

第2次川中島合戦の対陣のとき、善光寺の北西にある葛山山頂に築かれた上杉方の城。上杉謙信が武田方の旭山城に対する向城として整備・拡大した重要な前線拠点であった。もとは葛山衆と呼ばれる地侍の城で、城主は落合氏であった。

弘治3年(1557)2月、雪で上杉軍が出陣できない時期を見計らい、武田信玄は牧之島城(まきのしまじょう)の馬場美濃守(ばばみののかみ)に命じ、大軍で葛山城を急襲した。城主の落合備中守は死力を尽くし奮戦したが、武田軍は水の手を断ち切り城に火をかけ、城兵のほとんどは戦死。このとき、援将として村上氏の支族・小田切駿河守幸長(おたぎりするがのかみゆきなが)が城主落合氏と一緒に戦い籠城したが、馬場信房らの猛攻により、落城とともに討ち死にした。

落城の際、逃げ場を失った多くの女性たちが身を投げた姫谷を呼ばれる谷底からは、後の世まで哀しい鳴き声が聞かれたという。また、この城は水に乏しく米を水に見せかけて敵の目を欺いたという米山城伝説も残る。

葛山城跡へは、武田方と関係も深い静松寺(じょうしょうじ)などから登山道が整備されている。標高822mの山頂にある本丸跡は、展望のよい小公園となっており、旭山城跡や大峰城跡、飯綱山を目の前に、長野市街地から広がる川中島平を一望できる。

岡澤先生の史跡解説

葛山城が武田軍に攻略される前は、飯縄山一帯は落合氏の所領であった。落合氏は佐久市落合から出た滋野(しげの)氏一族の武士で、葛山城を本城として、裾花川(すそばながわ)流域を領した。一族に在地名を姓にした桜氏・鑪(たたら)氏・広瀬氏・上屋(あげや)氏・立屋(たてや)氏がおり、宗家落合氏を含めて葛山衆という。天文23年(1554)の『下諏訪秋宮造営帳』に落合領中、広瀬之庄七郷として「入山・上野・広瀬・上屋・桜・たたら(鑪)吉澤新曾(あらそ)」の地名がみえる(『信濃史料』十二巻)。これらの郷は葛山城趾のある長野市芋井(いもい)地区である。 

弘治2年(1556)3月11日、武田晴信が横棚(よこだな)の静松寺(じょうしょうじ)に遣わした書状に「落合遠江守(おちあいとうとうみのかみ)・同名三郎左衛門尉(さぶろうざえもんのじょう)、最前より筋目替わらず忠心を抽(ぬ)きんずべきの旨申され候か。なおもって感じ入り候。たとえ惣領二郎左衛門尉方、当方手当に属され候と雖も、両所に対しいよいよ懇切に申すべく候。この趣仰せつけらるべく候」とある。

この書状でわかるように、葛山落城の闇部には、武田晴信に内通していた静松寺の僧侶と落合遠江守・三郎左衛門の存在があった。

アクセス
長野駅より戸隠・鬼無里方面R406経由、茂菅の静松寺から徒歩約40分