長谷寺

読みは「ちょうこくじ」。上田市真田にある。武田軍随一の謀将・真田幸隆を開基とする曹洞宗の寺院。境内には、幸隆夫妻と子・昌幸の墓がある。

天文10年(1541)に武田信虎・諏訪頼重・村上義清の連合軍によって小県[ちいさがた]の地から上州(現在の群馬県にあたる)へ追いやられた幸隆であったが、後年武田信玄の家臣となり旧領を取り戻した。その後、領内に古くからあった種月庵という小さな寺に、天文16年(1547)上州安中の長源寺より僧を招き一宇(一棟の建物のこと)を建立。「真田山種月院長谷寺」と号し、のちに武田勝頼にも仕えた三男・昌幸によって寺は整備され、真田氏の菩提寺となった。なお、昌幸の子・信之が初代松代藩主となった際には、松代に同じ呼び名の長国寺[ちょうこくじ]を建立している。

真田氏の家紋「六文銭」のレリーフが刻まれた巨大な石門と、春には見事なシダレザクラの花々が参詣者を出迎える。

岡澤先生の史跡解説

真田幸隆の三男昌幸は、武田信州先方衆の総帥として活躍し、山本勘助と比肩される軍略家である。父幸隆が小県郡に定住するために、甲府へ人質として送られた。昌幸は幼少のころからその才能を高く評価され、信玄や勝頼の小姓、側近として仕え、武田家ゆかりの武藤を賜姓され、武藤喜兵衛[むとうきへえ]を名乗った。長兄の信綱と次兄昌輝が、天正3年(1575)長篠の戦いで討ち死にしたことにより、真田家を継いだ。信綱寺(しんこうじ・上田市真田町長)には、信綱夫妻、昌輝の墓がある。

昌幸の長子信之は、元和8年(1622)松代に移封されると、長国寺を建立し、長谷寺6世大承を迎え、開山した。長国寺には父の昌幸や実弟幸村の供養塔がある。

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