川中島の戦い・主要人物

高坂弾正忠昌信(こうさか・だんじょうのじょう※まさのぶ)

[大永7年(1527)~天正6年(1578)]
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。
高坂(香坂)弾正・昌信・昌宣、春日源助・源五郎・虎綱
※武田二十四将の一人でもある。
川中島合戦後も海津城将として北信濃統治を任された智将

信玄勝頼に仕えた武田軍きっての智将。「武田四名臣」の一人。北信濃の名族高坂氏を継ぐが、のち、もとの春日姓にあらため、春日虎綱[かすが・とらつな]と名のる。

石和の豪農・春日大隅の子で、当初は春日源助、源五郎と名のっていた。美少年でもあったといわれ、信玄の近習[きんじゅ]として寵愛を受け、天文21年(1552)に小姓[こしょう]から150騎の侍大将に抜擢された。山本勘助の縄張り(築城)による小諸城の城代を務めたのち、北信濃攻略の重要拠点となる海津城を守った。第4次川中島の戦いでは、妻女山[さいじょざん]の上杉軍本陣へと向かった啄木鳥[きつつき]隊を指揮。合戦後は敵味方の区別なく死者を弔い、義をもって戦後処理にあたったという。勝頼が織田・徳川の連合軍に大敗した天正3年(1575)長篠の合戦には参戦せず、海津城主として上杉勢に備えた。

天正6年(1578)、海津城内において52歳で病没。亡骸は遺命により、明徳寺[めいとくじ]に葬られた。

慎重な戦運びからついた“逃げ弾正”の異名。鋭い眼力は勘助を圧倒する

高坂弾正は、冷静沈着で温厚な性格だったといわれ、あらゆる情報を集めて戦況を分析し、無理な戦いをしない慎重さから“逃げ弾正”とも呼ばれた。信玄が徳川家康を破った三方ヶ原[みかたがはら]の戦いでも、敗走する徳川軍の追撃を無益であると宿将のなかでただ一人反対したという。民政にも長じ、川中島合戦後も北信濃の経営に力を注いだ。

ちなみに『風林火山』の物語の中では、信玄は難しい戦が予想されると「八分の信頼と二分の軽蔑感」をもって高坂(昌信)を赴かせ、「合戦さえあてがっておけばそれで十分満足」する若き武人として登場する。山本勘助が川中島に海津城を築城するにあたり、尼巌城の高坂昌信は勘助のよき相談役となって助言し、対上杉戦での武田の弱点も指摘。その鋭い眼力に、勘助は軍師としての自分の衰えを思い知らされ、物語は終章の川中島の戦いへと向かう。