川中島の戦い・主要人物

馬場美濃守信房(信春)(ばば・みののかみ・のぶふさ/のぶはる)

[永正11年(1514)?~天正3年(1575)]
馬場信房・信春・信政・氏勝・民部少輔、教来石景政
※武田二十四将の一人でもある。
40余年の戦歴にかすり傷一つなし、器量も深い知勇兼備の剛将

信虎信玄勝頼三代に仕えた譜代の重臣。「武田四名臣」の一人。
甲斐の教来石を領し、教来石景政(信房)[きょうらいしかげまさ/のぶふさ]と名乗っていたが、跡目の絶えていた武田重臣・馬場姓を継ぐとともに民部少輔[みんぶのしょうゆう]に任じられた。のち豪傑と謳われた原美濃守虎胤[はらみののかみとらたね]の美濃守称を許され、馬場美濃守信房(のち信春)と改名した。

戦の巧さには定評があり、諏訪、佐久の信濃攻略で数々の功名を成す。40余年の戦歴に擦り傷一つ受けたことがないという猛者で、度量が深く、知謀に優れ、信玄はもとより諸将・雑兵までが揺るぎない信頼を寄せる器量人であった。

深志城、牧之島城の城将を歴任、築城の巧さは勘助ゆずり

天文19年(1550)筑摩郡深志城[ふかしじょう](現松本城)の城将を務め、弘治3年(1557)には落合氏が籠もる葛山城を落とし、武田の善光寺平掌握の中核として活躍する。第4次川中島の戦いでは、対陣する上杉軍との一戦をどうするか、信玄は山本勘助を召しだし、馬場信房とともに評議させた。結果、勘助の啄木鳥(きつつき)の戦法により、信房は本陣・妻女山[さいじょざん]攻撃隊を率いた。合戦後の永禄5年(1562)、越後上杉の防御として牧之島城[まきのしまじょう](現信州新町)を築き、城将として北信濃の抑えを固めた。甲州流の築城の名手とされ、山本勘助の継承者とされる。

勝頼の代には譜代家老衆の筆頭格として活躍した。天正3年(1575)長篠の合戦では、敗走する勝頼軍の殿[しんがり]をつとめ戦死。その比類ない働きは敵の織田方も称讃したという。