川中島の戦い・主要人物

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中条越前守藤資(なかじょう・えちぜんのかみ・ふじすけ)

[生年不詳~天正2年(1574)?]
中条藤資・弾正左衛門尉・梅波斎
謙信腹心の勇将。川中島の戦いでも獅子奮迅の働きを見せ、 激戦後、謙信より「血染めの感状」を授かる

北蒲原郡奥山・鳥坂城(新潟県胎内市羽黒)主。揚北衆(あがきたしゅう・阿賀野川以北、現在の新潟県下越地方の有力国人)の実力者で、当初長尾為景に臣属していたが、上杉定実(さだざね)との養子問題で為景の跡を継いだ晴景と対立。信濃の高梨政頼らとともに謙信(景虎)の新守護代擁立を積極的に押し進めた。謙信が長尾家の家督を継承後、謙信の無二の忠臣として仕えた。

謙信に従って関東や信濃に出陣を重ね、数々の戦功をあげた。永禄4年(1561)には高齢にありながら第4次川中島の戦いにも参陣。謙信旗本の後陣をつとめ、奮戦した。この激戦で中条氏の被官らの多くが死傷し、戦後、藤資は謙信より「血染めの感状」※を受けた。

また、永禄11年(1568)武田方に通じた本庄繁長の謀反をいち早く謙信に通報し、繁長の居城・本庄城の攻撃にも加わったという。藤資は病により80年余りで生涯を閉じ、子の景資が中条氏を継いだ。

※「血染めの感状」……感状は配下の武将に合戦の武功を讃えて授ける書状。「血染め」と呼ばれるのは、合戦で死傷した一族や郎党らの死(血)の代償という意味によるという。