川中島の戦い・主要人物
宇佐美駿河守定行(うさみ・するがのかみ・さだゆき)
- 謙信の軍師をつとめた越後第一の勇士。 川中島の戦いで武田信繁を討ち取る
『甲越信戦録』によると、上杉四天王の一人・宇佐美駿河守定行は、越後第一の勇士との誉れ高く、上杉謙信の軍師と仰がれた。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いにおいても武功比類ない働きを見せ、八幡原の武田本陣に切り込んだ定行は、鋭く突き出す槍さばきによって、武田典厩信繁[てんきゅう のぶしげ]を討ち死ににいたらしめた。永禄7年(1564)7月、定行は野尻池に船を浮かべ、謙信の姉婿にあたる政景(上杉景勝の父)に叛心があるとして、政景を道連れに入水自殺を図り、殺害した。野尻池は、上水内郡信濃町の野尻湖ともいわれ、湖の中に浮か ぶ琵琶島(びわじま)には「定行の墓」がある。
また、上杉軍の川中島への進出拠点となった髻山(もとどりやま)城には、第4次川中島の戦い(川中島八幡原の戦い)の後、定行が立てこもり戦ったという伝承があり、「宇佐美沢」の地名が残されている。
- 宇佐美定満がモデルとなった伝説の武将
駿河守定行は、寛永年間(1624~1643)、定行の子孫と自称する宇佐美定祐[うさみ・さだすけ]が刊行した『北越軍記』『越後軍記』のなかに登場する創作上の人物とされ、実在した宇佐美駿河守定満[うさみ するがのかみ さだみつ]がモデルという。定祐は、その定満の孫とも伝わる。
宇佐美氏は、伊豆国宇佐美荘(静岡県伊東市)の豪族で、藤原頼朝に仕えた工藤左衛門祐経[すけつね]の弟、三郎祐茂[すけしげ]の末葉とされる。南北朝初期に越後守護上杉憲顕[のりあき]に従い越後に入府し、戦国期には琵琶島城(新潟県柏崎市)を本拠とした。天文20年(1551)、長尾政景と景虎(謙信)の家督相続争いで、駿河守定満は景虎側につき、臣下となった。
『甲越信戦録』にも語られているのと同様に、永禄7年(1564)、野尻池に船を浮かべて遊宴中、長尾政景とともに溺死したといわれる。なお、定祐は、越後流軍学の総帥で、紀州(和歌山県)藩士となり、宇佐神(うさじ)流という兵法を創唱したという。
直江山城守兼続(なおえ・やましろのかみ・かねつぐ)
- 川中島の戦いで小荷駄隊を指揮。 合戦中は丹波島の渡しを死守した『甲越信戦録』の山城守兼続
『甲越信戦録』に登場する「直江山城守兼続」は、木曾義仲四天王の内、樋口次郎兼光の末葉とされ、上杉の四天王の一人に数えられる。
永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、小荷駄(こにだ/食料、弾薬や馬糧などを運ぶための専門部隊のこと)奉行として丹波島に留まり、上杉謙信の本隊を側面から支えた。9月10日早暁、八幡原の武田本陣に猛虎のように攻めかかった上杉軍だったが、武田別働隊が駆けつけ、形勢は逆転。上杉勢は犀川を渡り善光寺方面へと北走する。丹波島の渡し付近の直江山城守は、200騎ばかりで高坂・甘利[あまり]の武田二勢を引き受け、味方が川を渡るのを援護した。やがて日が暮れ、大将の謙信が越後に逃れたことがわかると、直江山城守は犀川を渡り、旭山のふもとの諏訪平に後詰めの陣を張って、甘粕近江守[あまかすおうみのかみ]とともに甲州勢の攻撃に備えた。
犀川を挟んで布陣する直江・甘粕の上杉軍を叩かんと出撃命令を請う高坂弾正忠に対し、信玄は「敗戦して混乱した戦況にもかかわらず、あっぱれの勇士。その上、直江が後詰めに控えているのであれば、そのままに捨てておけ」と追撃を押しとどめた。3日後、直江・甘粕近江守隊は、陣を払い、越後に引き上げた。(『甲越信戦録』より)
- 上杉三代の重臣・直江大和守実綱亡き後、 非凡な才を見込まれた樋口与六が直江の名跡を継ぐ
上杉謙信の代、多くの史料によると兼続はまだ幼少であったことから、一般的には義父の大和守実綱[やまとのかみ さねつな](のち景綱)が、川中島の戦いに参戦したとされている。
大和守実綱は、与板城(新潟県長岡市与板町)を本拠に、長尾為景、晴景、上杉謙信の三代に仕えた重臣であった。上杉家における政治面での中枢を担い、領地経営や外交など奉行職で活躍したが、天正5年(1577)70歳(伝)で没した。
実綱には子がいなかったため、上杉景勝(謙信の養子)の命で、天正9年(1581)、樋口惣右衛門(与三左ェ門、与七郎とも)兼豊の子・与六が直江の名跡を継ぎ、山城守兼続[かねつぐ]と称した。兼続は早くから景勝の近習として仕え、その非凡な才を見込まれていた。
- 兜の前立ては「愛」の一文字。 文武兼備の名宰相、上杉米沢藩の基礎を築く
景勝の腹心となった兼続は、内政・外交・軍事にわたって才腕を発揮し、のち豊臣秀吉にも重用された。景勝の会津移封に伴い、米沢城(山形県米沢市)に入城。慶長6年(1601)、徳川家康が天下を治め、景勝が米沢30万石に減封された後も、景勝を一貫して支え続けた。城下では、農業や商工業の振興、水利事業、鉱山の採掘などに注力し、出羽米沢藩の基礎を築き上げた立役者といわれる。逸話では景勝が会津120万石から米沢30万石に減封の折、兼続は3万石を与えられたが、それを諸将に配分し、残りの1万石の私領をさらに二つに分け家中に与えたと伝わる。文学・学問を好み、まさに文武兼備の名宰相であった。
元和5年(1619)江戸鱗(うろこ)屋敷で死去。享年60歳(伝)。生涯仲睦まじく寄り添った年上の妻・お船(せん)の方とともに、山形県米沢市の春日山林泉寺[かすがやまりんせんじ]に墓所がある。また、兼続は兜の前立て(兜の前面につける飾り)に、愛染明王[あいぜんみょうおう]・愛宕権現[あたごごんげん]を表す「愛」の字をつけていたといわれ、上杉神社稽照殿(けいしょうでん・山形県米沢市)にその兜が収蔵されている。
『甲越信戦録』では、上杉家を代表する名家老・兼続の英傑を讃え、謙信の四天王として川中島の戦いに登場させたとも考えられる。
甘粕近江守景持(あまかす・おうみのかみ・かげもち)
- 謙信秘蔵の侍大将の筆頭。川中島の戦いで武田啄木鳥隊の渡河を阻む
上杉謙信・景勝に仕えた重臣で、謙信秘蔵の侍大将の筆頭。上杉四天王の一人。率いる部隊の強さは、柿崎景家[かきざきかげいえ]とともに上杉軍団の双璧を成した。
永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、山本勘助の啄木鳥(きつつき)戦法を見破り、千曲川を渡った上杉1万3千の将兵のうち、1千余人の兵は甘粕近江守指揮の下、戌ヶ瀬(いぬがせ)・十二ヶ瀬(じゅうにかせ)に留まり、武田別働隊に備えた。9月10日朝、甘粕隊は少数の部隊で、八幡原へと加勢に急ぐ武田別働隊(妻女山攻撃隊)1万2千の行く手を阻み、自身は半月のような大長刀を取り延ばし、武田勢を圧倒した。
戦いの終盤、上杉軍が撤退する際に直江山城守とともに殿(しんがり)をつとめ、すべての兵が犀川を渡った後、市村(いちむら)に陣をしき、後詰めに備えた。(『甲越信戦録』より)
- 武田の『甲陽軍鑑』に「近隣他国に誉めざる者なし」と雄姿を讃えられる
武田方の『甲陽軍鑑』にも、甘粕近江守の永禄4年(1561)の活躍は描かれており、大混戦の中、犀川へと1千余りの軍勢を乱すことなく率いる采配の見事さに、武田兵の多くは「謙信が指揮しているのではないか」と疑うほどであった。その様を近隣他国で誉めない者はいなかった、と高く称讃している。
甘粕氏の出自については諸説あり、清和源氏・甘粕野次広忠[あまかす(の)のじひろただ]春日山林泉寺を祖とし、桝形城(新潟県長岡市越路)を居城とする越後の豪族であったともいわれる。景持は、天正6年(1578)謙信が没した後、跡目相続争いの御館(おたて)の乱で勝利した上杉景勝に仕えた。天正10年(1582)には三条城将(新潟県三条市)となり、恩賞をめぐって景勝に背いた新発田重家[しばた・しげいえ]の居城・新発田城(新潟県新発田市大手町)攻めの前衛を担った。慶長3年(1598)、徳川家康に屈した景勝に従い、越後から会津(福島県)へ移り、慶長9年(1604)没したと伝わる。子孫は米沢(山形県)上杉藩士として続いたという。
柿崎和泉守景家(かきざき・いずみのかみ・かげいえ)
- 上杉軍の先鋒隊将をつとめた剛勇無双の猛将
柿崎氏は、鎌倉時代に白河荘(しらかわのしょう・新潟県阿賀野市周辺を支配した大見安田[おおみやすだ]氏の一族といわれる。戦国時代、長尾為景[ためかげ]に従属して戦功をたて、和泉守を称した。為景没落後は、柿崎城(別名木崎城・新潟県上越市柿崎区)を本拠地に、上杉謙信の側近として奉行職をつとめた。戦場では、他に並ぶ者のない越後随一の勇猛果敢な武人と称され、その剛将ぶりは、遠く中国地方にまで聞こえたといわれる。
- 川中島の戦いで山本勘助を討ち取った柿崎隊
永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、朝霧に包まれた八幡原の信玄本陣・典厩信繁[てんきゅうのぶしげ]隊に先陣をきって突撃し、猛攻を加えた。武田軍は苦戦を強いられ、本陣を死守しようと躍り出た山本勘助を討ち取ったのは、柿崎の隊であった。(『甲越信戦録』より)
伝えられるところによると、景家は、天正2年(1574)に没し、子の晴家[はるいえ]は織田信長との内通を疑われて天正5年(1577)誅殺。天正6年(1578)の御館(おたて)の乱※以降、景勝側についた晴家の遺児・憲家[のりいえ]が柿崎家を再興したという。
柿崎家の菩提寺である楞厳寺(りょうごんじ・新潟県上越市柿崎区)には、景家と上杉謙信の幼少時代の師であった天室光育[てんしつ・こういく]の墓がある。
※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。
斎藤下野守朝信(さいとう・しもつけのかみ・とものぶ)
- 攻めれば攻め取り、戦えば勝つ「越後の鍾馗(しょうき)」
謙信の信頼厚く、部下や領民からも慕われた忠勇の士 上郡・中郡(現在の新潟県上越・中越地方)の有力国人で、越後刈羽郡の赤田城(新潟県柏崎市)主。謙信・景勝の二代に仕えた。仁愛の心深く、部下をいたわり領民を慈しんだので、領内はよく治まったという。謙信政権下で奉行を務め、内政に参画する一方、戦場では勇猛ぶりを発揮し、その働きは「越後の鍾馗(しょうき/疫病除け、魔除けの神様)」と称された。謙信も朝信にたびたび先陣を命じ、城を攻略するとその城将に任じたといわれる。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、一向一揆に備えるため越中に出陣し、謙信の信濃出兵を側面から支えた。
天正6年(1578)に謙信が没した後、家督争いの「御館(おたて)の乱」が起こり、朝信は景勝方に味方して活躍。乱後も台頭する織田信長の勢力に備えた甲越同盟の実現に向けて奔走。天正10年(1582)には武田攻めの織田軍に対抗するため信州に出陣し、北信濃統治の拠点となっていた海津城を守った。
朝信亡き後は嫡子・景信が斎藤家を継ぎ、景勝の会津移封では越後に残ったという。
『甲越信戦録(巻の六/六)』の中には、隻眼の小男「斉藤下野守則忠」の名で登場。使者として甲州・武田方に赴き、機転の利いた巧みな弁舌をふるい、信玄もその才を讃えた。
小島弥太郎勝忠(こじま・やたろう・かつただ)
- 謙信の幼少時代から仕え、活躍した剛力無双の勇将
敵将の山県昌景いわく「花も実もある武士」 長尾為景に仕え、謙信の幼少時代からの近臣と伝えられる。六尺(約1.8m)を超えるたくましい体格で、当初は為景の馬廻りを務めながら各地を転戦し、数多くの軍功を重ね、のち徒武者(かちむしゃ/馬に乗らない、徒歩の兵)大将となったという。勇猛果敢な豪傑ぶりから“鬼小島”とあだ名され、近隣国人衆から恐れられた。
上杉家の史料にはその名が登場せず、架空の人物ともされるが、上杉家中には小島姓も多くさまざまな伝承を残している。武勇伝も数知れず、『甲越信戦録』には、武田方への使者に遣わされたとき、信玄の家臣たちが画策して放った猛犬を悠然と口上を述べながら片手で押しつぶしたエピソード(巻の六/一)のほか、謙信の上洛につき従った弥太郎が将軍義輝の飼っているどう猛ないたずら猿を痛めつけ、謙信の威信を保った話(巻の六/二)などが語られている。また、永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、弥太郎と立ち合った山県昌景だったが、主君武田義信の窮地を見るや、勝負を待ってくれるよう懇願し、弥太郎はその忠義に免じて槍を引き下げた。山県は心中に「花も実もある武士であることよ。鬼小島とは誰が名づけたものか」とつぶやいたという(巻の八/一)。
新潟県新井市には弥太郎が居住したと伝えられる館跡や新潟県長岡市の龍穏院(りゅうおんいん)には位牌と墓がある。一方、飯山市の英岩寺(えいがんじ)にも鬼小島弥太郎の墓があり、一説には第4次川中島の戦いで深手を負った弥太郎は春日山城への帰陣途中、鬼ヶ峰(飯山市小佐原)で自害し、埋葬されたとも伝えられている。
安田治部少輔長秀(やすだ・じぶしょうゆう・ながひで)
- 景虎時代からの側近として軍功多数の大剛の士
第4次川中島の戦い後、「血染めの感状」を授かる 揚北衆(あがきたしゅう・阿賀野川以北、現在の新潟県下越地方の有力国人)で安田城(新潟県阿賀野市保田)主。安田氏は、伊豆の豪族・桓武平氏の子孫・大見氏を祖とし、越後北蒲原郡白河庄安田条を領していた。長秀は、謙信の父長尾為景の代から臣属していたとされ、天文17年(1548)、長尾家中での景虎(謙信)擁立のクーデターにも参加した。
謙信が政権把握後は、関東や信濃へも参陣し、戦功を挙げた。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、武田信玄の嫡子・義信の隊を直江大和守景綱や甘粕近江守景持とともに苦しめたといわれ、戦後、謙信から「血染めの感状」※を授けられている。
天正6年(1578)、謙信亡きあとの上杉家の家督争い「御館(おたて)の乱」では景勝方につき、軍功をたてた。天正9年(1581)、景勝に背いた新発田重家(しばた・しげいえ)の謀反鎮圧の陣中で病没したと伝えられる。
※「血染めの感状」……感状は配下の武将に合戦の武功を讃えて授ける書状。「血染め」と呼ばれるのは、合戦で死傷した一族や郎党らの死(血)の代償という意味によるという。
色部修理進勝長(いろべ・しゅりのしん・かつなが)
- 謙信に忠節を尽くした揚北衆の忠臣
川中島の戦いで謙信から「血染めの感状」を授かる 揚北衆(あがきたしゅう・阿賀野川以北、現在の新潟県下越地方の有力国人)で、岩船郡平林城(新潟県岩船郡神林村)主。色部氏は平姓秩父氏の一族で、本庄氏の支族でもある。鎌倉時代より越後国小泉荘色部条(現在の岩船郡神林村北部及び村上市岩船地区のあたり)を領していた。
謙信の父・長尾為景の代から臣従していた勝長は、人心を読み戦略・戦術の才に優れ、内憂の絶えなかった色部家を再興し、合戦でも数々の功名をたて勢力を広げていった。
弘治3年(1557)、武田軍が北信濃に侵攻し葛山城を攻略しようとした際、勝長は謙信より救援の出陣を求められたともいわれるが、勝長が兵を出したかは不明で、のち葛山城は武田軍の手に落ちてしまう。
永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、謙信に従い先陣の柿崎景家を援護し、武田方の赤備えと恐れられていた飯富虎昌の隊を敗走させたともいう。合戦後には謙信から「血染めの感状※」を授かった。
永禄11年(1568)本庄繁長(ほんじょうしげなが)が武田方に内通し謙信に反旗を翻すと、勝長はその制圧に乗り出し、繁長の本庄城を包囲する。しかし翌12年(1569)繁長は夜襲をかけ、両軍激戦となって勝長は討ち死にしてしまう。独立心が強い揚北衆の中にあって、最後まで忠節を尽くした勝長の死を謙信はたいそう惜しんだという。家督は子の顕長[あきなが・兄]、続いて長実[ながざね・弟]が継ぎ、謙信・景勝の二代にわたり、忠勤に励んだという。
※「血染めの感状」……感状は配下の武将に合戦の武功を讃えて授ける書状。「血染め」と呼ばれるのは、合戦で死傷した一族や郎党らの死(血)の代償という意味によるという。
本庄美作守慶秀(ほんじょう・みまさかのかみ・よしひで)
- 栃尾城時代から謙信を補佐。直江景綱、大熊朝秀らとともに奉行職を務め、政権の中枢を司る
越後古志郡・栃尾城(新潟県長岡市栃尾町)主。天文12年(1543)、林泉寺(りんせんじ)を出て還俗した謙信(当時は景虎)は、兄晴景より栃尾城に派遣され、越後平定を支援。そのころ城代を務めていたのが慶秀であり、以来、側近として若き謙信を補佐した。やがて晴景に代わり、実力ある謙信を擁立しようとする動きが起こると、これを支持。天文17年(1548)、謙信が長尾の家督を相続して、春日山入城を果たしたのちは、春日山城に移り、長尾家譜代の家臣直江景綱、守護上杉家の重臣大熊朝秀らとともに奉行職を務め、謙信政権の中枢を担った。
天文23年(1554)頃より、守護上杉家の旧家臣と謙信擁立派との政争が起こり、旧家臣団に属していた大熊朝秀と対立。慶秀と直江景綱側が勝利を得、敗れた大熊朝秀は越後を去り、甲斐の武田信玄に仕えた。
慶秀の子秀綱は、天正6年(1578)上杉家の家督争い「御館(おたて)の乱」※で、小田原北条氏の景虎派を支持し、敗れて会津に逃れたという。
※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。
山吉孫次郎豊守(やまよし・まごじろう・とよもり)
- 外交に卓越した手腕を発揮。謙信の側近中の側近として軍政両面で活躍し、上杉家最高の軍役数を担った
蒲原郡山吉(新潟県見附市山吉町)の出身。代々、越後守護代の三条長尾氏の被官であり、三条城(新潟県三条市)を領した。
永禄10年(1567)以降、謙信の旗本として奏者(そうじゃ)を務め、信濃や関東地方の諸大名との交渉や派遣された諸将との連絡調整、国内での境界紛争の調停など、外交折衝に手腕を発揮した。永禄12年(1569)ころには主に小田原北条氏との折衝にあたり、越相同盟の締結にも尽力した。また、触れ書きや禁制の制定にもあたっていたという。
謙信からの信頼は厚く、天正3年(1575)の「上杉家軍役帳」には、旗本・譜代として、鑓(槍)235丁・手明(兵糧を積んだ馬を引く兵)40人・鉄砲20丁・大小旗30本・騎馬52騎、計377人という謙信指揮下の諸将のなかで最大の軍役を担っていた。
天正5年(1577)病没。家督は弟の景長が継いだ。
新発田尾張守長敦(しばた・おわりのかみ・ながあつ)
- 弟の重家とともに謙信を支えた揚北衆の重鎮
御館の乱で国人衆を統率し、景勝を勝利に導く 新発田城(新潟県新発田市)主。新発田氏は、佐々木加地氏の支族で揚北衆(あがきたしゅう・阿賀野川以北、現在の新潟県下越地方の有力国人)の一員。長敦は、武勇の誉れ高く、春日山城門番を務め、内政・外交面で活躍し、謙信・景勝の二代に仕えた。天正3年(1575)「上杉家軍役帳」には194人の軍役を負担している。
天正6年(1578)謙信亡き後の家督争い「御館(おたて)の乱」※では、国人衆をとりまとめ、弟・重家とともに軍功を挙げて、景勝方の勝利に大きく貢献した。また同年景勝と武田勝頼との和議に向けて奔走し、甲越同盟成立にも尽力した。
しかし、家督を継ぐことに成功した景勝は上杉家の譜代・旗本衆を遇したため、揚北はじめ他の国人衆にはなんの恩賞も与えられない状況のまま、長敦は天正8年(1580)に没した。新発田家を継いだ弟の重家は、恩賞のないことを不服として、景勝に対して謀反を起こす。景勝は重家討伐の兵を挙げるが、重家の抗戦は6年に及んだ。そして天正15年(1587)新発田城は落城し、重家は自害した。
※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。
河田豊前守長親(かわだ・ぶぜんのかみ・ながちか)
- 上洛した謙信に目をとめられ、側近となった近江国の智将
後年は魚津城・松倉城を守り、北陸方面の総指揮官となる 近江国守山(滋賀県守山市)の出身。永禄2年(1559)、上杉謙信が将軍・足利義輝に拝謁するため二度目の上洛をした際、その才能を認められて近臣として召し抱えられ、奉行職を歴任した。性格の穏やかな知勇兼備の士で、一説には謙信の寵童(ちょうどう)であったともいわれている。
永禄年間(1558~1569)には主に関東に出陣し活躍。一向一揆との戦いが激化すると北陸方面に派遣され、魚津城(富山県魚津市)、富山城(富山県富山市)などを預かり、謙信の越中経略の中核を支えた。元亀4年(1573)に武田信玄が没すると、その情報を入手し、いち早く謙信に告げたともいわれる。
長親は、上杉景信の跡目として古志(こし)長尾氏を継承し、謙信から長尾の姓と紋を与えられたが、長尾姓を名乗ることは畏れ多いとして辞退した。天正6年(1578)謙信が急死し、上杉家の相続争い「御館(おたて)の乱」※では中立の立場をとり、収束してからは上杉景勝に仕えた。その後も松倉城(富山県魚津市)主として織田軍との攻防に奮戦したが、天正9年(1581)越中にて病没したと伝えられる。
※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。
中条越前守藤資(なかじょう・えちぜんのかみ・ふじすけ)
- 謙信腹心の勇将。川中島の戦いでも獅子奮迅の働きを見せ、 激戦後、謙信より「血染めの感状」を授かる
北蒲原郡奥山・鳥坂城(新潟県胎内市羽黒)主。揚北衆(あがきたしゅう・阿賀野川以北、現在の新潟県下越地方の有力国人)の実力者で、当初長尾為景に臣属していたが、上杉定実(さだざね)との養子問題で為景の跡を継いだ晴景と対立。信濃の高梨政頼らとともに謙信(景虎)の新守護代擁立を積極的に押し進めた。謙信が長尾家の家督を継承後、謙信の無二の忠臣として仕えた。
謙信に従って関東や信濃に出陣を重ね、数々の戦功をあげた。永禄4年(1561)には高齢にありながら第4次川中島の戦いにも参陣。謙信旗本の後陣をつとめ、奮戦した。この激戦で中条氏の被官らの多くが死傷し、戦後、藤資は謙信より「血染めの感状」※を受けた。
また、永禄11年(1568)武田方に通じた本庄繁長の謀反をいち早く謙信に通報し、繁長の居城・本庄城の攻撃にも加わったという。藤資は病により80年余りで生涯を閉じ、子の景資が中条氏を継いだ。
※「血染めの感状」……感状は配下の武将に合戦の武功を讃えて授ける書状。「血染め」と呼ばれるのは、合戦で死傷した一族や郎党らの死(血)の代償という意味によるという。