北信濃の豪族・大日方佐渡守直長[おびなたさどのかみなおなが]は、安曇郡千見城主といわれ、広田に所領を得て、川中島中央部の押さえである広田砦の守将となった。直長の墓がある昌龍寺[しょうりゅうじ]は、大日方氏の開基によるものといわれる。
なお、昌龍寺の境内には、松代城の火の見櫓を移築したものと伝えられる高さ15mの鐘楼が建っている。
岡澤先生の史跡解説
大日方佐渡守直長[おびなたさどのかみなおなが]は、天文21年(1552)武田晴信(信玄)に属し、川中島広田砦を得て、ここに移り、水内郡小川を兼ね領した。
直長が小川に隠住後は、子の山城守直家[やましろのかみなおいえ]が跡を継ぎ、天正5年(1577)父の意志を継いで砦の一隅に昌龍寺を建立し、父直長を開基とした。同12年(1584)直長が没すると昌龍寺に葬った。墓地の南西側に「光陽院殿虎岳昌龍大居士」の銘の刻んだ直長の墓碑が、開山・順貴[じゅんき]上人の墓と並んで建立されている。昌龍寺の寺紋は大日方氏の家紋と同じ「丸二」である。
大日方氏の祖、小笠原長政は安曇郡広津大日向(生坂村広津)に城砦を構えて、大日方を姓とした。天文5年(1536)小川氏の拠る古山[ふるやま]城(小川城・上水内郡小川村)を攻略し、小川を領有するとともに、仁科領内の千国庄[ちくにのしょう]に千見[せんみ](大町市美麻)、飯田・茨木(白馬村神城)の三城を築城し、水内郡の西中山部、安曇郡の北東山部を領有する有力な地侍となった。
天文21年(1552)、千見城主大日方佐渡守直長は、宗家古山城主大日方上総介直武(直長の兄)とともに武田に従属し、川中島の戦いでは信州先方衆として出陣した。このときの大日方軍は110騎であった(『甲陽軍鑑』)。永禄10年(1567)の生島足島神社起請文に、大日方上総介直武[おびなたかずさのすけなおたけ]の名がみえる。信玄存命中は大日方氏の総帥は、宗家の直武であることが知れる。
元亀4年(1573)信玄没後の勝頼時代は、その宛名人は佐渡守直長の子、主税介[しゅぜいのすけ※](山城守)直家宛に替わり、大日方氏の総帥は、宗家から直家に移った。直家は天正10年(1582)武田家滅亡後、上杉景勝の家臣となった。慶長3年(1598)景勝の会津移封に付随せず、小川に帰農した。小川村には大日方姓が100軒ほど今もある。
※補足) 主税介=役職名としての読みは「しゅぜいのすけ」が適当だが、「ちからのすけ」と読む説もある。
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