犀川[さいがわ]が善光寺平へと流れ出る、長野市小田切塩生の北側に築かれた山城。川中島の戦いのころは、村上氏の支族・小田切駿河守幸長[おたぎりするがのかみゆきなが]の居城であった。城跡からは犀川と川中島平を一望でき、善光寺平から筑摩・大町方面への押さえを担っていた。
弘治3年(1557)、武田軍の葛山城攻略では、小田切駿河守は葛山衆の一派として城主落合氏とともに籠城するが、馬場信房らの猛攻により、落城とともに討ち死にした。 吉窪城は子の民部少輔が守ったが、葛山城が攻略されたことにより、自落した。なお、長野市川中島町今里の円光寺には小田切駿河守の墓がある。
岡澤先生の史跡解説
吉窪城は、犀川左岸に聳えるすり鉢を伏せたような独立丘(標高619m)の上にある。麓の吉窪集落からの比高は220m。南は犀川に臨む急峻な斜面で、攻めるには、搦め手(からめて/城や砦の裏門)の吉窪集落の方から攻める以外にない、堅固な城である。遺構は搦め手への道が幅1mの七曲がりの小道になっている。山頂が本郭で、南北27m・東西73mの楕円形。東方に1mの段差がある。西側に高さ2~3m、上幅2m・下底幅6m、長さ33mの土塁がある。2の郭は、東西南北33mのほぼ正方形で、周囲に土塁をめぐらしている。
弘治3年(1557)、小田切駿河守幸長は、落合氏が籠る葛尾城援軍に馳せ参じ、落合備中守治吉[はるよし]とともに籠城した。同年2月15日、馬場美濃守など、武田軍の火攻めの猛攻で落城した。駿河守は武田軍の中に討って出て、討ち死にをした。駿河守の首は室賀兵部の家来山岸清兵衛が討ち取った。武田晴信が3月20日、室賀兵部に与えた感状に、
「去る十五日信州水内郡葛山の城において、その方被官清兵衛首壱、小田切駿河守を討ち捕らえの条、戦功感じ候。いよいよ忠信ぬきんずべき旨、仰せ含められ候。恐々謹言」とある(『信濃史料』)。この葛山城攻略のとき、信玄の与えた「首壱つ云々」の感状は『信濃史料』に14通あるが、感状に人名が記載されているのは、小田切駿河守だけである。
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