読みは「くらぼねじょう」跡。長野市松代町清野・千曲市倉科。千曲市と長野市境の鞍骨山(標高798m)に、永正年中(1504~1521)、村上氏の支族・清野山城守勝照[きよのやましろのかみかつてる]が築いたとされる。西北に伸びた尾根の先端部には、永禄4年(1561)上杉謙信が本陣を構えた妻女山(さいじょざん)があり、川中島四郡を直下に見据える好立地にあたる。
清野氏は、村上九家※の筆頭格で、全盛期のころには鞍骨山麓の西条・清野をはじめ、雨宮、倉科、森など9カ村を領したという。天文22年(1553)武田軍の川中島進出によって、清野氏は家名を残すため、武田・村上双方に分かれたとも伝えられる。清野清秀[きよひで](美作入道清寿軒)は村上義清とともに越後に逃れたが、永禄2年(1559)、旧領に帰り、武田信玄に出仕した。なお、孫の満成も信玄・勝頼に仕え、越中守と称した。
鞍骨山は形が馬の鞍に似ているため名づけられたといわれ、倉骨または鞍橋城とも記される。
※村上氏代官九家。諸賀(もろが)・清野・山田・雨宮・出浦(いでうら)・小野沢・滝沢・若槻・栗田の九氏のこと。
岡澤先生の史跡解説
山城鞍骨城跡は、松代町清野と千曲市倉科の境にある鞍骨山(標高700m)にある清野氏の山城である。松代付近では古くから「一に春山、二に尼飾(あまかざり/尼巌)、三に鞍骨」といわれ、堅固な山城に数えられていた。戦国期ころまでは、戸倉から宮坂峠(千曲市戸倉)を越えて、森(同市)から松代へ至る道が主要な街道であった。この街道の押さえとして鞍骨城は築城され、大手(正門)は南を向いている。
本郭は東西約50m・南北約25mあり、北側は絶壁で、段をなしている。北側の山裾にあった旧清野館への往来は比較的容易である。城跡の東北には土塁や古井戸も残っている。西の尾根上には、平石小口積みの石垣が数段にわたって築かれた郭跡や「駒留(こまどめ)」といわれる中核土濠、馬場と呼ばれる平坦地が、尾根伝いに続いている。土濠の西北の一段下に水の手があって「水の平」の地名が残る。
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