栗田城跡

村上氏一族・栗田氏の城館跡。堀之内城ともいわれた。弘治元年(1555)、第2次川中島の戦いでは、栗田氏は武田方について旭山城にこもり、横山城の上杉謙信を牽制した。信玄は犀川[さいがわ]対岸の大堀館に本陣を構え、旭山城に兵や鉄砲、弓などを送り、栗田氏を支援。甲越の対陣は200日におよんだ。この戦いの後、栗田氏は善光寺本尊を持ち出し、甲斐へ移ったという。現在、築堤などの遺構が残る栗田城跡には、水内総社日吉大神社(栗田神社)本殿が建っている。

永禄4年(1561)の八幡原の激戦では、後半、妻女山攻撃隊(啄木鳥[きつつき]別働隊)が加わった武田の軍勢に追われ、犀川を渡ろうとした上杉軍であったが、市村の渡し[いちむらのわたし]で数多くの将兵が討ち死にした。市村は栗田氏の支配下でもあったので、その水主(船乗り、船頭)が武田軍とともに上杉軍の北走を阻止したためともいわれる。その付近となる信州大学工学部の南西側には、討ち死にした将兵たちの霊を慰めた姫塚がある。

岡澤先生の史跡解説

栗田城は2重の濠をめぐらした複郭式平城である。城域は東西709m・南北1090m※、回字形で、主郭跡は21mの方形である。現在は主郭跡に、西から北にめぐって幅11m・高さ9m・長さ40mほどの築堤が残る。北西隅には、水内総社日吉[みのちそうしゃひえ]大神社本殿がある。城跡付近には、本城・部屋田・東番場・舞台など城館跡の名残を留める地名がある。
※堀や周辺屋敷なども含む。純粋な「城」の跡だけの大きさではない

水戸栗田系図では寛覚[かんかく]の傍注に、
「栗田禅師初めて信濃の国栗田の郷に居住する。よって本姓の村上を在地名の栗田と改姓する。同国戸隠の別当を兼ねる」
とある。この寛覚は村上氏の分家、栗田氏の祖である。寛覚より戦国時代末まで、およそ400年間、栗田城は、栗田氏の城館であった。

天文22年(1553)年、宗家村上義清が信玄に敗れ、越後に逃れると栗田寛安[かんあん]は、武田に属して60騎の足軽大将となった。弘治元年(1555)、甲越両軍が犀川を挟んで対陣したとき、寛安は旭山城に入り、善光寺横山城に陣を構える上杉勢を大いに苦しめた。この戦いの後、栗田氏は善光寺本尊を奉じて甲斐に移った。そのため栗田城は破却された。寛安の子、鶴寿[かくじゅ]は天正9年(1581)天神城で戦死した。箱清水の寛慶寺は、栗田寛慶[かんけい]が天正15年(1587)栗田寺を箱清水の地に移して、寛慶寺と改称したと伝えている。
(『信濃宝鑑』)

アクセス