読みは「ますがたじょう」跡。別名山田城。鎌倉時代に、安曇郡仁科(にしな)氏を出自とする山田氏が築城したともいわれ、のち井上氏、ついで高梨氏の城となった。間山(まやま)峠にあるのろし台を見張る位置にあり、第3次川中島の戦いでは、上杉謙信が善光寺平出兵の際に攻略した城とされる。
弘治3年(1557)2月、武田信玄は犀川以北への進出をはかり、善光寺の背後にある葛山(かつらやま)城を攻めた。同時に周辺土豪の調略を着々と進め、高梨一族の山田(原)左京亮[やまだ(はら)さきょうのすけ]と木島出雲守も武田方につき、自領を保証してもらった。
3月、葛山(かつらやま)落城の報を受けた上杉謙信は信濃へと出陣。途中、武田方となった山田要害(山田左京亮の城)と福島城(須坂市)を攻略し(『色部文書』※)、4月に善光寺に着陣した。謙信は旭山城を再興して本陣を置き、武田勢に対したが、信玄は直戦を避けた。8月下旬に上野原の戦い(第3次川中島の戦い)があったが、まもなく越後勢は川中島から撤退した。
東方には山田氏の居館があったとされ、曹洞宗真法寺(しんぽうじ)境内がそれであると伝えられている。
※『色部文書』……旧上杉家の家臣が新潟県内各地を支配した鎌倉時代と戦国時代の武将の家に伝わる古文書を集めた「越後文書宝翰(ほうかん)集」の一書。
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