川中島の戦い・主要人物

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由布姫(諏訪御料人)(ゆうひめ、すわごりょうにん)

[1531? -1555]
父の仇・晴信の妻として生きた、短く薄幸な人生

天文11年(1542)、武田晴信(信玄)による諏訪攻略によって自刃させた諏訪頼重(すわ・よりしげ)の息女。側室小見[おみ]氏(麻績[おみ]城主小見氏の娘・華蔵院[けぞういん])との子といわれ、「目のさめるような美貌」で晴信に見初められて側室となる。天文15年(1546)、後に武田家当主となる四男勝頼を15歳で生む。10年後の弘治元年(1555)、わが子の晴れ姿を見ることなく、薄幸な生涯を閉じた。

晴信の側室として迎えるにあたり、家臣たちは「手にかけた諏訪家の娘、いつ上様の寝首をかかれるやもしれません」とこぞって反対したが、「諏訪への懐柔策となり、武田家にとって必要なことである」という山本勘助の進言によって、天文12年(1543)、晴信との祝言が行われたとされる。

文学作品に描かれる由布姫の姿

歴史上、その本名は知られておらず、海音寺潮五郎の『天と地と』では“諏訪御料人(すわごりょうにん)”、新田次郎の『武田信玄』では“湖衣姫(こいひめ)”と名づけられた。井上靖の『風林火山』には、由布姫の名で登場し、敵である晴信を憎む一方で、深く愛する心に揺れる、内に情熱を秘めた女性として描かれている。物語ではそんな美しく怜悧な由布姫に思慕の情を寄せる山本勘助が、勝頼に自らの夢をかけて二人を見守ってゆく。

由布姫の故地、小坂観音院と高遠・建福寺

なお、由布姫が暮らしたという諏訪湖岸の龍光山[りゅうこうざん]観音院(小坂[おさか]観音院)には“由布姫の供養塔”が建ち、また伊那市高遠の建福寺[けんぷくじ]には勝頼が母親の菩提を弔ったとされる由布姫の墓がある。法名は「乾福寺殿梅岩妙香大禅定尼」という。