川中島の戦い・主要人物

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高梨政頼(たかなし・まさより)

[永正5年(1508)?~天正4年(1576)?]
上杉謙信と縁戚関係にあった北信濃の有力土豪

高梨氏は、井上氏の一族で、南北朝時代から戦国期にかけて高井郡から水内郡にかけて勢力を誇った北信濃の有力な国人領主であった。戦国時代、越後守護代の長尾為景[ながおためかげ]を援護して関東管領の上杉顕定[うえすぎあきさだ]を討ち取り、近隣の地侍を配下にし、中野郷(中野市)を本拠とした。

越後の長尾家とは代々縁戚関係を結び、為景の妹を妻に迎えた政頼は、長尾景虎(上杉謙信)の義理の叔父にあたる。長尾晴景と景虎の家督争いの際は、景虎を支持した。

武田軍の圧力に耐えかね、村上義清らとともに上杉謙信を頼り、川中島の戦いを惹起する

政頼は、東信濃の村上義清と対立関係にあったが、武田信玄による脅威が北信濃にも及ぶと、義清と和睦して共同戦線を張り、天文19年(1550)武田軍の砥石城攻め後、反旗をひるがえした寺尾氏の寺尾城を攻撃するなどした。

天文21年(1552)信玄に本領を追われた林城主の小笠原長時は、子の貞慶とともに、長尾家に縁のある高梨政頼を介して越後の長尾景虎を頼った。天文22年(1553)には村上義清の葛尾城が自落し、北信濃は一気に武田の脅威にさらされ、義清と政頼はじめ、井上・島津・須田・栗田氏ら信濃国人衆も景虎に救援を求めた。義に厚い景虎は求めに応じて信濃に出陣。こうして12年におよぶ川中島の戦いが始まった。

越後の援軍を受けた政頼と村上義清らだったが、武田軍の猛攻を阻止できず、弘治年間(1555~1558)に政頼は本拠地の中野郷をあとにし、上杉謙信の庇護下で飯山城(飯山市)を拠点として武田信玄の北信濃計略に対抗した。そして、永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いには、子の秀政[ひでまさ]らとともに上杉軍の先陣を務めた。

枯山水庭園跡など貴重な遺構を持つ、国史跡指定の高梨氏館跡

武田氏滅亡後、北信濃が上杉氏の所領となると、高梨頼親[よりちか]の代に本領の一部を回復するが、慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封に伴い、高梨氏も会津へ移ったという。

高梨氏の拠点であった高梨氏館跡(中野市)は、東西約130m、南北約100mの大規模な方形居館で、貴重な枯山水様式の庭園跡をもつ。館跡は公園として整備されており、2007年には国史跡に指定されている。