川中島の戦い・主要人物

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村上義清(むらかみ・よしきよ)

[文亀元年(1501)~元亀4年(1573)]
左衛門尉
葛尾城を本拠として、北信濃に一大勢力を誇った戦国武将

平安時代以来、信濃国更級郡[さらしなぐん]村上郷におこり、清和源氏の流れをくむ有力土豪・村上氏の末裔。戦国時代、葛尾城[かつらおじょう]を本拠として、小県地方から善光寺平にかけ、東・北信濃に最大の勢力を誇った。天文10年(1541)に、武田信虎諏訪頼重[すわ・よりしげ]とともに海野棟綱[うんの・むねつな]の滋野[しげの]一党を攻撃し、小県[ちいさがた]を掌中に治めたが、この戦いに参戦した真田幸隆[さなだ・ゆきたか]は、海野氏とともに信濃を追われ、のち武田信玄に出仕。武田の信濃先方衆として、宿敵となった義清を追い詰めていく。

上田原の戦いと「砥石崩れ」、無敵の武田軍団を二度も破り、信玄の信濃攻略を阻む

天文17年(1548)、義清の軍勢は、信濃攻略を進める武田信玄と上田原で戦い、板垣信方[いたがき・のぶかた]、甘利虎泰[あまり・とらやす]といった有力武将を討ち取って、無敵といわれた武田軍に勝利する。さらに天文19年(1550)の砥石城[といしじょう]の合戦では「砥石崩れ」と称されるほどの大打撃を武田軍に与え、信玄に二度も苦杯をなめさせた。

しかし、その勝利もつかの間、翌天文20年(1551)に、義清に臣従していた各地の領主たちは次々と武田に調略され、難攻不落といわれた砥石城を真田幸隆に乗っ取られてしまう。同盟関係にあった筑摩郡[ちくまぐん]の小笠原長時[おがさわら・ながとき]も信濃を追われ、義清は次第にその勢力を弱めていった。

武田軍に抗いきれず、越後の上杉謙信を頼った義清。そして、川中島の戦いは始まった

天文22年(1553)4月、武田軍の攻撃により、本城・葛尾城もついに自落。城から逃れた義清は、北信濃の高梨[たかなし]氏や井上氏らとともに越後の上杉謙信に救援を求め、これを機にして、12年の長期におよぶ川中島の戦いは始まる。

求めに応じた謙信の信濃出兵で一時は旧領を回復した義清だったが、武田軍の追撃をかわすことはできず、嫡子・国清[くにきよ](のち景国[かげくに])とともに越後へと敗走。以後、上杉謙信の配下となって、幾度もの川中島の戦いに参戦するが、自領復帰はかなわず、元亀4年(1573)正月、越後根知城(新潟県糸魚川市)で没した。享年73歳。

武田氏滅亡後、上杉景勝[うえすぎ・かげかつ](謙信の養子)に臣従した子の景国は、海津城主を命じられて、越後に召還されるわずかな間だが故地に返り咲きを果たしている。
現在、村上氏の本拠だった坂城町には義清の供養塔が建っている。また上越市の光源寺[こうげんじ]にも五輪塔がある。