寺尾城跡

遠景

長野市松代町東寺尾。寺尾氏築城とされる城。千曲川沿いに突き出た尾根に位置し、善光寺平へ大室(おおむろ)から可候(そろべく)峠を越え、加賀井、地蔵峠、上田方面へと通じる交通の要所にあった。武田方の海津城築城後は、金井山(かないやま)城とともに東・北信濃を固める役割を果たした。

寺尾氏は、代々諏訪神社の頭役を務めた諏訪神[すわ みわ]家※の支族で、戦国期には村上氏に属していたが、武田信玄の信濃侵攻により、清野氏とともに武田方についた。天文19年(1550)、砥石城の戦いにおける武田信玄の敗退(砥石崩れ)に乗じて、村上義清は敵対していた高梨氏と和睦し、連合軍を組織。反旗をひるがえした寺尾氏の寺尾城を攻撃した。この時、真田幸隆は地蔵峠を越えて寺尾氏を救援しようとしたが、間に合わず村上勢によって落城したという。

城へは南側の愛宕(あたご)神社より登山道があり、山頂の主郭には、寺尾氏の墓が建っている。

※神(みわ)氏。諏訪上社の最高祠官(神職の長)の位を代々継いだ氏族。のちに諏訪氏と称する。

岡澤先生の史跡解説

城跡は尼飾山(尼巌山ともいう。標高760m)の北西端に細く延びた支脈が南に分岐した、愛宕山(赤塚山、城山ともいう。標高430m)の山頂にある。その山形が富士山に似ているところから「寺尾小富士」の別称もある。

城跡には自然石に「寺尾殿之墓」と刻んだ寺尾氏の墓碑が建っている。愛宕神社の参道が大手(城の正面、正門)である。本郭は20mほどの土塁に囲まれ、空濠跡も残っている。本郭から100mほど南に下ったところに馬場跡があり、寺尾氏の館跡は、屋敷・北堀・金堀の地名として残っている。

尼飾山と愛宕山の狭間に可候峠、金井山と愛宕山の狭間に鳥打峠がある。鳥打峠を下った城の北部に刑場があった。天文23年(1554)額岩寺光氏は、村上義清と内通している廉により鳥打峠の刑場で処刑された(『甲陽軍鑑』・『甲越信戦録』)。慶長7年(1602)森右近忠政[もりうこんただまさ]は川中島四郡(埴科・更級・高井・水内)の総検地を実施し、その厳しさのため一揆が起こった。忠政が一揆関係者を磔にしたとき使った槍を研いだという「槍研ぎの池」がある。

天文19年(1550)武田信玄が砥石城を攻めたとき、城主寺尾太郎左衛門は、村上氏にそむいて武田方に内通したため、村上、高梨の連合軍に攻撃された。このとき真田幸隆が地蔵峠を越えて救援に駆けつけたが、時遅く寺尾城は落城していた。太郎左衛門(百龍丸か)は、天文22年(1553)8月、村上義清に従って越後へ逃れたが、のち武田晴信に降り、真田幸隆旗下・信州先方衆の20騎の将となった。天正10年(1582)上杉景勝が川中島四郡を領すると太郎左衛門の子、伝左衛門は景勝の家臣となり、荒砥城番、海津城在番を勤めた。また所領は旧領を安堵されたほかに、下氷鉋村(長野市稲里町)に所領を与えられ、文禄4年(1595)の中氷鉋村・下氷鉋村の『太閤検地帳』に「寺尾分」がみえる(青木十郎家文書)。

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