川中島の戦い・主要人物
斎藤下野守朝信(さいとう・しもつけのかみ・とものぶ)
[生年不詳~天正末年(1592)?]
斎藤朝信・為盛
- 攻めれば攻め取り、戦えば勝つ「越後の鍾馗(しょうき)」
謙信の信頼厚く、部下や領民からも慕われた忠勇の士 上郡・中郡(現在の新潟県上越・中越地方)の有力国人で、越後刈羽郡の赤田城(新潟県柏崎市)主。謙信・景勝の二代に仕えた。仁愛の心深く、部下をいたわり領民を慈しんだので、領内はよく治まったという。謙信政権下で奉行を務め、内政に参画する一方、戦場では勇猛ぶりを発揮し、その働きは「越後の鍾馗(しょうき/疫病除け、魔除けの神様)」と称された。謙信も朝信にたびたび先陣を命じ、城を攻略するとその城将に任じたといわれる。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、一向一揆に備えるため越中に出陣し、謙信の信濃出兵を側面から支えた。
天正6年(1578)に謙信が没した後、家督争いの「御館(おたて)の乱」が起こり、朝信は景勝方に味方して活躍。乱後も台頭する織田信長の勢力に備えた甲越同盟の実現に向けて奔走。天正10年(1582)には武田攻めの織田軍に対抗するため信州に出陣し、北信濃統治の拠点となっていた海津城を守った。
朝信亡き後は嫡子・景信が斎藤家を継ぎ、景勝の会津移封では越後に残ったという。
『甲越信戦録(巻の六/六)』の中には、隻眼の小男「斉藤下野守則忠」の名で登場。使者として甲州・武田方に赴き、機転の利いた巧みな弁舌をふるい、信玄もその才を讃えた。