川中島の戦い・主要人物

小島弥太郎勝忠(こじま・やたろう・かつただ)

[生年不詳~永禄4年(1561)?]
鬼小島弥太郎・慶之助・貞興
謙信の幼少時代から仕え、活躍した剛力無双の勇将
敵将の山県昌景いわく「花も実もある武士」

長尾為景に仕え、謙信の幼少時代からの近臣と伝えられる。六尺(約1.8m)を超えるたくましい体格で、当初は為景の馬廻りを務めながら各地を転戦し、数多くの軍功を重ね、のち徒武者(かちむしゃ/馬に乗らない、徒歩の兵)大将となったという。勇猛果敢な豪傑ぶりから“鬼小島”とあだ名され、近隣国人衆から恐れられた。

上杉家の史料にはその名が登場せず、架空の人物ともされるが、上杉家中には小島姓も多くさまざまな伝承を残している。武勇伝も数知れず、『甲越信戦録』には、武田方への使者に遣わされたとき、信玄の家臣たちが画策して放った猛犬を悠然と口上を述べながら片手で押しつぶしたエピソード(巻の六/一)のほか、謙信の上洛につき従った弥太郎が将軍義輝の飼っているどう猛ないたずら猿を痛めつけ、謙信の威信を保った話(巻の六/二)などが語られている。また、永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、弥太郎と立ち合った山県昌景だったが、主君武田義信の窮地を見るや、勝負を待ってくれるよう懇願し、弥太郎はその忠義に免じて槍を引き下げた。山県は心中に「花も実もある武士であることよ。鬼小島とは誰が名づけたものか」とつぶやいたという(巻の八/一)。

新潟県新井市には弥太郎が居住したと伝えられる館跡や新潟県長岡市の龍穏院(りゅうおんいん)には位牌と墓がある。一方、飯山市の英岩寺(えいがんじ)にも鬼小島弥太郎の墓があり、一説には第4次川中島の戦いで深手を負った弥太郎は春日山城への帰陣途中、鬼ヶ峰(飯山市小佐原)で自害し、埋葬されたとも伝えられている。