川中島の戦い・主要人物

小幡山城守虎盛(おばた・やましろのかみ・とらもり)

[延徳3年(1491)?~永禄4年(1561)]
小幡(小畑・尾畑)虎盛・孫十郎・織部・日意
※武田二十四将の一人でもある。
合戦36度、感状36枚、刀傷47カ所、“鬼虎”の異名を持つ足軽大将

父・日浄[にちじょう](盛次)とともに遠州勝間田(静岡県牧之原市)から甲州に来て、武田信虎に仕え、のち足軽大将に抜擢された。はじめ織部、後に山城守を名乗り、信虎から「虎」の一字を受け、虎盛と称した。生涯、合戦に30数度の出陣、体には40数カ所の傷を受け、“鬼虎”の異名で恐れられた。大将として率いる部隊の采配ぶりは定評があり、主君信玄山本勘助も称讃したという。

海津城の副将として川中島を警護

信玄の出家に際しては、原虎胤[はらとらたね]、真田幸隆とともに剃髪入道し、日意[にちい]と号した。高坂弾正忠昌信[こうさかだんじょうのじょうまさのぶ]の副将をつとめ、海津城二曲輪[くるわ]の守衛にあたっていたが、永禄4年(1561)6月、上杉軍との決戦を前に病に倒れ、没した。臨終には「よくみのほどをしれ」の遺言を残し、子孫への戒めにしたという。家督を継いだ嫡男の豊後守昌盛[ぶんごのかみまさもり](又兵衛)は、父親の後継とされた海津城副将を辞退し、第4次川中島の戦い(永禄4年/1561)では旗本衆として本陣の信玄を守った。

西上野先方衆の小幡上総介信貞[かずさのすけのぶさだ]とは別系の小幡氏だが、『甲越信戦録』巻之四の二「小幡家由緒のこと」では、小幡入道日意(山城守虎盛)は上野国に住む「群馬の音人[おとひと]」を先祖とする同族として語られている。