川中島の戦い・主要人物

小幡上総介信貞(おばた・かずさのすけ・のぶさだ)

[天文9年(1540)?~天正19年(1591)?]
小幡(小畑・尾畑)信貞・信定・信実・信真・右衛門尉・尾張守・上総介・兵衛尉
※武田二十四将の一人でもある。
武田軍団の中で最大の部隊を誇った上州の朱武者

父・尾張守憲重[おわりのかみのりしげ](重貞とも)は、上野国小幡(群馬県甘楽郡甘楽町小幡)の国峰[くにみね]城を本拠とする有力国人といわれる。夫人は箕輪[みのわ]城主(群馬県高崎市箕輪町)・長野業政[ながの・なりまさ]の娘。関東管領上杉憲政[うえすぎ・のりまさ]が越後に逃れた後、憲重・信貞父子は身内の謀反により本領を追われ、天文22年(1553)武田晴信(信玄)の幕下に加わった。

信貞は、西上野先方衆として武勇をはせ、永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、妻女山攻撃隊(啄木鳥[きつつき]隊)の一隊として参戦。戦後、武田軍の上野侵攻により旧領を回復し、箕輪城、駿河・小田原攻め(永禄12年/1569)、三方ヶ原の戦い(元亀3年/1572)を転戦し、勝頼の代には長篠の戦い(天正3年/1575)で善戦した。『甲陽軍鑑』によると、憲重・信貞率いる小幡氏一党の部隊は常に500の騎馬隊を従え、その数は武田家中最大を誇った。赤漆の鎧を身にまとった軍装で勇猛果敢に戦い、敵将からは「上州の朱武者」として恐れられたという。

武田家滅亡後、真田氏を頼って上田・塩田平に隠棲

天正10年(1582)武田家滅亡後、織田信長に仕えて本領安堵されるが、本能寺の変(天正10年/1582)後は後北条氏の配下となり、さらに小田原征伐で徳川家康に小幡領を明け渡した後、旧知の真田昌幸を頼って信州塩田平に隠棲。天正19年(1591)同地で没したと伝えられ、別所温泉(上田市)の安楽寺[あんらくじ]には、信貞の墓が建てられている。

遠州(静岡県西部)から来た小幡山城守虎盛[やましろのかみとらもり]とは、別系の小幡氏。永禄9~10年(1566~1567)の「生島足島神社[いくしまたるしまじんじゃ](上田市)起請文[きしょうもん](誓詞)」は、「小幡右衛門尉信実」の名で納められている。また、信貞の養嗣子(弟・信高の次男)も「信貞」を名乗った。