川中島の戦い・主要人物

内藤修理亮昌豊(ないとう・しゅりのすけ・まさとよ)

[大永3年(1523)?~天正3年(1575)]
内藤昌豊・昌秀・修理亮
※武田二十四将の一人でもある。
功名よりも武田全軍のために忠義を尽くした“甲斐の副将”格

信玄勝頼の二代に仕えた重臣。永禄4年(1561)、川中島で討ち死にした信玄の弟・典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)亡き後、甲斐の副将格と目された。「武田四名臣」の一人。

初名は工藤源左衛門尉祐長[くどうげんざえもんのじょうすけなが]。信虎の老臣であった父親が手討ちになり国外追放の身となるが、のち晴信(信玄)に呼び戻されて旧領を復活、やがて50騎の侍大将に抜擢され、内藤家を継承した。

武略に優れ、思慮深い人物といわれる。多数の大将首をとったが、「合戦での勝利が第一、いたずらに大将首を取るなど小さい事」と大局的見地に立ち武田軍の統率に心を砕いた。第4次川中島合戦では、旗本陣の右翼を担って死守。その後、筑摩郡深志城、西上野の箕輪城城代を務める。天正3年(1575)、長篠の合戦にて戦死。