川中島の戦い・主要人物
相木市兵衛昌朝(あいき・いちべえ・まさとも)
[生年不詳~永禄10年(1567)?]
政信、依田能登守常喜
- 信玄に重用された信濃先方衆の精鋭
川中島の戦いで妻女山攻撃隊の一隊を率いる 佐久郡南部、相木城(見上城・佐久郡南相木村)城主で、天文12(1543)年ころには、武田氏の配下となり、信玄の信濃攻略において地の利を活かし数多くの戦功をあげた。信玄からの信頼も厚く、騎馬80騎持ちで田口城(佐久市臼田)城主となったと伝えられる。
永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、高坂弾正[こうさかだんじょう]、真田幸隆らとともに妻女山の上杉軍を突く啄木鳥[きつつき]隊の一隊を指揮した。
川中島の戦い以降、相木氏は善光寺城山下付近に相木城を築き、善光寺平の治安維持に務めたという。長野市三輪には昌朝が在陣したと伝わる相木氏の城館址があったが、昭和33年(1958)長野女子高等学校建設により取り壊され、跡地に小宮と城跡碑が建立された。この地籍を走る北国街道は現在「相ノ木通り」と呼ばれている。
- 仇敵村上氏に対抗し、武田に従った相木依田氏
相木氏は、阿江木[あえき]氏ともいわれ、小県郡依田荘(上田市丸子)を発祥とする依田氏の一族という。当初、北佐久地方を治めていた大井氏の重臣だったが、文明16年(1484)、村上政清、顕国※父子が佐久に侵入し、大井城が攻略されてからは、相木氏は大井氏を離れ、佐久郡相木城を拠点とした。その後、相木能登守(昌朝)の代となり、武田信玄の信濃侵攻を機に、かねてから村上氏を快く思わなかった相木氏は、武田方に与したのではないかともいわれる。
天正10年(1582)武田氏滅亡後、相木氏は小田原北条氏に属したが、徳川方の依田(芦田)信蕃[しんばん/のぶしげ]に田口・相木城を落とされて関東へ逃れた。天正17(18)年(1589、1590)には伴野貞長らとともに旧領を奪還すべく相木に挙兵したが、松平康国に攻められて敗れ、再び上州(現在の群馬県にあたる)へ逃れたという。
※この村上顕国の子が、村上義清である。