戦記「甲越信戦録」巻の四
一.雨の宮合戦のこと
信玄公と謙信公、決着のため川中島へ出馬す
武田軍・上杉軍は、呉越の隔たりのように、和睦することなく、たびたび出陣しては徒(いたず)らに対陣を重ねていた。今度こそは勝負を決着しようと、信玄公、謙信公は、将兵を引き連れ川中島へ出馬した。両者とも日本の名将。その徳によって天下の英雄たちは、この両将の旗下に馳せ参じた。
時に天文二十一年(1552)十一月上旬、上杉軍は宇佐美駿河守・柿崎和泉守ら先陣五千余人を川中島へ押し出し、千曲の川端に進んで三段に構えた。大将謙信公は、会[あい]村(長野市篠ノ井会)に布陣し、総勢合わせて三万余人、三十六備えである。その場所は、千曲川左岸に接した上横田・下横田・小森(長野市篠ノ井)である。
上杉軍の出陣の知らせを受けて、甲府の大僧正信玄公も出馬し、総勢は一万八千余人。御本陣は千曲川の南、雨の宮である。矢代(屋代)より雨の宮、土口、笹崎、岩野山は、みな武田の陣場となり、備え二十一カ所である。
往古より知られる雨の宮の地
雨の宮は、古くからあったと思われる。宗祇[そうぎ]法師(室町後期の連歌師)が行脚中、信濃に立ち寄ったとき、このあたりは大変な干ばつだった。困っていた人々は宗祇の袂にすがり、雨乞いの歌を願った。
宗祇は哀れんで、近くの森に雨の宮が祭られていることを聞き、
いかなれば神の御前の草枯るる
何を印に雨の宮とは
と和歌※を詠じられた。その途端に空が曇りはじめて、大雨が車軸を流すように三日間降り続けたという。これ以降、雨の宮は有名になったと伝えている。
※歌碑は、雨宮坐日吉神社[あめのみやにいますひえじんじゃ](千曲市雨宮)の社地にある。
上杉軍、山本重頼の策により、千曲川を渡る
こうして十一月十九日から二十七日までの九日間、両軍互いに川をはさんで、無駄に弾丸と矢を交わすだけで、日は過ぎた。信州は日本一寒い国である。甲州勢の兵の中には、雪と寒さに耐えかねて自国に帰りたいと願う兵も出てきた。信玄公も自分の寒気を口には出さず、大将たちを諫めた。
一方の上杉方、「我が軍は越後の深雪に馴れているので、いまが合戦の好期。勝ったも同然」という柿崎和泉守景家に対して、謙信公は「味方は雪には強いかもしれぬが、武田軍のように川の合戦には馴れていない。一つの利を見て戦うことは、敗戦のもとである」と仰せられた。
「合戦をあまり見合わせては、臆病と言われるのも悔しいこと。また密かに敵の機を察し、速やかにその利に乗って不意を撃つとする太公望の兵勝の術もあります。いずれにしても軍法の触れを回らせるように」と景家は急き立てる。
そこで謙信公は、山本帯刀重頼を召されて相談された。「眼の療治に三里(脚のツボ)に灸をすえるように仕掛けてはいかがなものでしょうか」と重頼は答えた。謙信公ははったと手を打って「妙案、妙案」と同意された。つまり、はるか脇より千曲川を渡り、敵の後ろにまわり、前後より討つ戦法。柿崎和泉守も「あっぱれの軍法」と舌を振るった。
暮れゆく霜月二十七日の夜、上杉軍は、宇佐美駿河守、甘粕近江守らの面々を先陣に、千曲川の白鳥河原を渡って矢代の上へ、一重山に続いた有明山を越えて、森(千曲市森)の地に陣を構えた。
夜回りの長尾越前守、佐藤と深堀の太刀を奪う
謙信の姉婿の長尾越前守政景は、前々から腹黒く、邪心ある人物だった。その夜、陣まわりをしていた長尾越前守は、寝入っている佐藤主計・深堀藤四郎という勇士の太刀を奪い取ってしまった。
翌朝、二人は太刀のないことに気づいた。面目なく、深堀は切腹しようとしたが、佐藤は「戦場に出て主君の役に立つことなく死ぬ法はない。明日の戦いを待たれよ」と、流れる涙を拭うことなく諫めた。佐藤の忠告に深堀は死ぬことを思い止めたのだった。
信玄公と小幡入道、かすかな気配に敵の動きを知る
信玄公は油断なく、自ら日に三度ずつ陣まわりをして警戒していたが、二十八日の暁天、有明山より鹿が群がって武田の陣所を横に笹崎の山へと駆けていった。
これを見た 信玄公は、小幡入道日意を召し連れ、「鹿は人を恐れ、招けども寄ってこないものだ。昔、源平の戦いでも、軍兵に驚いた鹿や猿が平家の陣所へ落ち下ったという。敵は勢を二手に分け、一手を山手へまわし、前後より引き包んで討とうとする戦術だろう」と告げる。小幡入道日意も、「夜回りで千曲川に新しい馬の沓が流れ来るのを見つけたので、敵が川を渡ったに違いないことをご報告しようと思っておりました」という。
信玄公は常に変わらぬ小幡の心がけに感心され、「油断するなよ」と申された。小幡は重ねて「味方は小勢で、慣れない寒気と雪で兵たちも心労しております。状況によって戦術を自由に変える大将が良将というもの。不利な戦に兵を痛めることはされますな。ただ今より軍を収め、陣払いするのが最善の策。自分は法師武者、君の身代わりに残って静かに勢を引き上げましょう」と陣払いを進言した。 信玄公はこの儀もっともと、雪の降る中、矢代の方へと引き取った。
二.小幡家由緒のこと
小幡家の由来
小幡の先祖は、上野国甘楽郡小幡(群馬県甘楽郡甘楽町小幡)に住む群馬の音人という。後冷泉天皇の御代、康平年中(1058~1065)、八幡太郎義家(源義家)が東夷征罰の折、上野国に入り、群馬の音人の方に立ち寄ると、空より白絹が舞い降りて庭の竹にかかった。そのさまが旗のようで、義家はこれこそ源氏の白旗ぞと、勝利を確信し、音人に申しつけてその竹を切って旗竿にうち立て、奥州へ下り強敵を亡ぼした。
上洛の帰途、音人方を訪れた義家は、「その方が家にて旗を得たことである。よって今よりこの所を小幡と唱え、汝が家の紋を竹の葉にするがよかろう」と申しつけた。これ以後、音人は苗字を小幡とし、紋所に笹の葉を用いることになった。
屈辱の佐藤主計、深堀藤四郎、雨の宮に死す
小幡入道日意は、備えを万全とし、敵が討ち寄るのを待った。越後方は龍が天に登る勢いで千曲川の端へと繰り出した。その時、寒風がさっと吹き下ろし、空はにわかに曇り、雪で半町先も見えなくなった。さすがの越後兵も川を渡ることなく退いた。
このとき狗ヶ瀬(『甲陽軍鑑』にいう雨の宮の渡し)を渡る二騎の武者がいた。佐藤主計、深堀藤四郎であった。昨夜の恥を注ごうと雨の宮の方へさっと乗りだし、「武田の面々出合って勝負あれ」と大音声をあげ、敵中に割って入り、大勢とわたり合う。しばらく戦って敵六、七騎討ち取るが、まもなく、深手を負い、二人とも討ち死にした。越後方は両人を最後に川を渡る者がなかった。
小幡入道はこれ幸いと、静かに陣払いする。昨夜山間に隠れていた越後勢は、大山の崩れるごとく、龍の雲水に翻[ひるがえ]るがように小幡隊を猛追した。宇佐美駿河守、甘粕近江守は、敵中に馬を駆け込み、武田軍もこれに応戦した。
甲州の勇者八百四人、果敢に戦い、討ち果てる
討死はこの時とばかりに死闘を展開する甲越の両軍。しかし武田方は次第に打ち負け、退いていく。追い詰める越後勢は、「雷鳴のごとく呼ばれた武田の勇者よ、敵に後ろを見せるのか。引き返して勝負あれ!」と声をかける。それを聞いた甲州の八百余人、「ああ無念なり」とたちまち馬の鼻をとって返し、我臆せじ、負けじと戦った。主君のためには、命は鴨毛よりも軽いものぞと惜しまずに戦い、甲州の八百余人は一つ枕に討死した。雪は血潮に紅となり、骸は丘となって重なった。
日も巳の下刻(午前十一時頃)となり、謙信公は千曲川を越えて雨の宮に移られた。討死した甲州兵を見て、「信玄は良い家臣を持たれたものよ」とつぶやかれ、手厚く弔うことを命じた。それというのも、雑兵にいたるまですべての甲州兵が、仰向けに倒れていたからである。逃げていくものを後ろから切るとうつむきで倒れるが、向かってくる者を切れば、仰向けで倒れるものである。
そして、謙信公が味方の討ち死にしたものを検分されると、三百余人であった。中でも佐藤と深堀が抜け駆けして討ち死にしたことに驚き、それが長尾越前守が夜廻りの時に太刀を奪いとったゆえと知る。言語に絶した非道によって惜しい勇士に無残な最期をさせてしまったと、謙信公は越前守を叱責された。
甲州軍、寒気に勝てず、陣を引く
時に信玄公は、雨の宮を陣払いし、三千余人を引き連れて寂蒔原[じゃくまくはら](千曲市)に陣を替えた。小幡入道は殿(しんがり)を済ませ、陣所に参じた。山形(県)三郎兵衛は、味方の討ち死にを嘆き「ここより取って返し、一合戦せん」とはやるが、信玄公は押し止め、「このような深雪で味方は寒気に苦しみ、思うようにはならない。弔い合戦は明春にして戦はこれでいったん収め、帰国しようぞ」と仰せられて直ちに帰国した。一方、謙信公も引き取り凱陣した。
雨の宮の合戦で討ち死にした者は、甲州方は九百余人、越後方は三百余人であった。
三.海津城築城のこと
信玄公、馬場・山本に命じ、川中島に城を築かせる
『土塊鑑(つちがくれかがみ)』※によると埴科郡海津の城は天文二十二年(1553)築城とある。 雨の宮の合戦は雪に難儀し、空しく引き取ったことから、信玄公は、何とかして信州川中島に城を築き、領国支配の拠点にしたいと痛切に思われていた。そこで、場所見立てを馬場美濃守と山本勘助に仰せつけた。両人はあちこち調査したところ、埴科郡松井郷小渕の里が要害まことに優れたところと見極め、城を築くことにした。
小渕の里には、清野道寿軒、息子の左衛門尉(清寿軒)が建てた要害堅固の城館跡があった。東・西・南は高山が屏風となって連なり、北は善光寺まで平原だが、千曲川、犀川の大河で防戦上実に優れている。上手と下手はいずれも千曲川が押し迫り、道は細く、自然の関所となって敵を防ぎ止めることは容易である。これこそ青龍・白虎・玄武・朱雀の四神[しじん](天の四方の方角を司る守護神)が相応じている。
山本勘助は、角隅右宗より授かった古法に基づき四神を四方に祀り、地鎮祭を執り行った。その後、四方に堀を極め、築城の段取りを終え、人夫を集めて急ぎ築城したのが、海津の城である。 ※松代を中心に川中島四郡の地理・伝説・寺社縁起等を収録した宝永3年(1706)の本。松代藩士・落合保孝編著。
勘助、城北に水除八幡の宮を建立す
海津城の築城にあたり、 山本勘助は考えた。北面の防護堀と利用したこの城は、後々千曲川が満水すれば、水難を避けがたい。その上、今年は丑年。丑の方角は北、水である。十干(じっかん)も癸(みずのと)なれば極陰である。こうしたことから、水を守りの神として祀ることにした。そこで、城の北、川中島に一社を建立して武大神を祀り、水除八幡の宮とした。この社が今の八幡原にある水除八幡宮である。
海津の名の由来
この城が海津と名がついた説はいろいろある。海なしの信濃国に「海」の字を用いるのを不思議がる者もいることだろう。高井・水内・更級・埴科・小県の五郡は、太古は海であった。この五郡の井戸水は塩辛く、塩分が含まれ茶の湯によい。深い土中からは貝の類が多く出土する。地名には海野(東御市海野)、塩尻(上田市塩尻)、塩崎(長野市篠ノ井)の名があり、石川(長野市篠ノ井)には昔船をつないだと伝わる船繋(ふなつな)ぎ石という岩もある。矢代(千曲市屋代)や上田辺りでは、野良仕事で田畑に出ることを「沖へ行く」という。水内郡も海水の内という意味である。
このようなことから海津と名づけたのである。また、築城に際し、甲州石水の図を採用して築いた城ということで「甲斐図」ともいうのである。
こうして、海津城城代として本丸に小山田備中守、尼飾城には高坂弾正を差し置いた。海津に城が築かれると、謙信の出陣に備えて、この地から甲州まで連絡の狼煙(のろし)を定めた。これは西条山(狼煙山)に上がる火を、葛尾山(埴科郡坂城町)、腰越山中久保(小県郡長和町長久保)、和田峠(長和町~下諏訪町)、金沢(茅野市金沢)、若神子(山梨県北杜市須玉町)を経由して、石水の御館(甲府躑躅ヶ館[躑躅ヶ崎館])まで伝えるという工夫である。常に足軽二十人ずつを置いて、山を守らせた。海津より石水※までは二十七里の距離であった。
※不詳。石水寺山城のことか?(信玄が生まれた積翠寺要害城)躑躅ヶ崎館の北方にある。
四.義清出馬三士成敗のこと
望郷と復讐の念に燃える村上義清
越後へと落ち延びた村上義清は、故郷忘れがたく、常に信州をうかがい、なんとかして会稽[かいけい]の恥辱をそそぎたいと心を砕いていた。その時も時、信玄は自国の清野屋敷に城を築き、村上の先祖代々の廟所(びょうしょ)と墳墓など、美麗荘厳であった建造物を掘り崩してしまった。これこそ古代中国で秦の廟所を崩した項羽に劣らぬ暴挙と、信玄の振る舞いに義清は怒り、謙信公にその無念を切々と訴えた。謙信公はその怒りは当然と、義清に二千の兵を与えた。義清は天にも登る心地で、出馬の用意に専心した。
一方甲州では兼ねてより間者を差し置き、敵の動静を探らせていたが、村上義清の出馬と聞くと野尻(上水内郡信濃町)や牟礼(同郡飯綱町)の者たちは我も我もと海津城に村上の動静を注進した。小山田備中守、高坂弾正、馬場民部、飯富兵部らは集まり、義清を待ち伏せして虜(とりこ)にしようと、衆議はまとまった。
上田原合戦で武田に降参した額岩寺光氏は、これを聞いて「今はご出馬しなされますな。危険は必定」と義清に内通し、村上勢は出兵途中で春日山へ引き返した。この知らせを受けた小山田、高坂の両人は、これおかしいと眉をひそめ、きっと上田原で降参した者どもの目論見に違いないと、額岩寺らに隠し目付を立て、動きを探らせた。
忠貞の武士・額岩寺処刑される
再び義清を信州に呼び迎えたいと機会を狙う額岩寺光氏は、同士と示し合わせては、満福寺の下の森、先祖村上頼清を祀る村上社で夜毎に密談した。こうして七月二十日には海津、尼飾城を焼き払い、武田に加担した奴らを皆討ち取ろうと決めた。隠し目付からこの事実を知らされた高坂、小山田、大いに驚き、先頃光氏に油断してはならぬという信玄公の仰せに、名将の目のつけ所は格別と感じ入った。そして、光氏らをだまし、搦(から)め取ることにした。
「ご主君から御酒を賜った」と登城させ、光氏に酒を飲ませて泥酔させ、縛り上げた。このとき布下左衛門、和田修理も捕らえられ、三人は鳥打峠(松代町東寺尾)の麓に引き出されて、処刑された。光氏は信州に肩を並べる人もないほどの勇士だったので、処場に集まった群衆は「忠貞の武士よ、いたわしや」と涙を流し、手を合わせて惜しみ悲しんだ。
その後、密談会所となった村上の宮は打ち砕かれて、千曲川へ流された。
五.原の町合戦のこと
謙信公と鬼小次郎※1との出会い
天文二十三年(1554)の八月上旬、上杉謙信公は信州へ出馬した。お供には一騎当千の剛士を選び、総勢八千余人。この中でも鬼小次郎という者は力量いたって強く、生まれは国上[くがみ](新潟県西蒲原郡弥彦村)。その昔、酒呑童子(しゅてんどうじ)が出生した里である。
謙信公が十六歳で国まわりをされた時、弥彦の岨道(そばみち)で牛を引いてくる男と対面した。細く険しい山道であるので引き返すことはできず、そこで男は牛を差し上げて山にしがみつき、君を通された。謙信公は男の強力に感心され、「鬼のようなその強力、もしや酒呑童子の末孫かもしれぬな。今より我が家来とし、鬼小次郎助宗と名乗るがよい」と仰せられた。小次郎※2は宇佐美駿河守の手につき、武術を習い、あっぱれの勇士となった。
※1)岡澤由往著/現代語訳本では「小治郎」となっているが、五章内は「小次郎」に統一して掲載。(ちなみに鬼小島弥太郎とは別の武将。)
※2)現代語訳本では「弥治郎」となっているが、これは原本が小島・弥太郎と混同したものと思われるため「小次郎」に統一して掲載。
山本重頼、天文を見て戦況を占う
八月十日に越後を出馬された謙信公は、善光寺表に暫く滞在後、犀川を渡り、原の町に陣を構えた。今の北原・南原(長野市川中島町原)である。山本帯刀重頼は、その夜の天文を見て宇佐美駿河守にこう言った。「昨夜は、火焔のように光る蛍惑星(火星)が、南方に出現し、味方を照らした。この現象は味方に凶事を示すもの。そうであっても戦わずして引く大将ではない。貴殿と拙者は地の利を考え、味方の引き口を固めようぞ」。
宇佐美は山本の意見に賛同し、戦の勝負に構わず、大塚村(長野市青木島町大塚)に陣取った。
信玄公、海津城に入城し、勘助の縄張りに満足す
海津城からの知らせを受けた信玄公は、急いで信州に出馬し、海津城に入城した。城の縄張りに満足された信玄公は、山本勘助に二百貫をご加増された。
城内に仮御茶屋を建て、戦の評議を行ったところ、高坂弾正昌信は、「今年は敵小勢の出陣、急ぎ川中島に出陣し、戦いをしかけるべき」と申し上げた。信玄公は「高坂よ、敵を侮ってはならぬ。水を掬(すく)うと月影は手にある。蕩々(とうとう)と流れる水のように、謙信は兵を自由に使う。少ない兵卒は味方を油断させ、不意に討とうとする魂胆である。少人数でも侮ってはならぬ。」と指示して、軍勢を繰り出した。
御本陣は清野にて、先陣は千七百余人、二の目には二千余人、後陣は二千七百人、浮武者は四千余人。軍勢は各々広瀬、猫ヶ瀬、十二ヶ瀬を渡り、川中島へ押し出す。その場所は、水沢、中沢、杵淵、東福寺(長野市篠ノ井)である。