川中島の戦い・主要人物

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色部修理進勝長(いろべ・しゅりのしん・かつなが)

[生年不詳~永禄11年(1568)]
色部勝長・顕長
謙信に忠節を尽くした揚北衆の忠臣
川中島の戦いで謙信から「血染めの感状」を授かる

揚北衆(あがきたしゅう・阿賀野川以北、現在の新潟県下越地方の有力国人)で、岩船郡平林城(新潟県岩船郡神林村)主。色部氏は平姓秩父氏の一族で、本庄氏の支族でもある。鎌倉時代より越後国小泉荘色部条(現在の岩船郡神林村北部及び村上市岩船地区のあたり)を領していた。

謙信の父・長尾為景の代から臣従していた勝長は、人心を読み戦略・戦術の才に優れ、内憂の絶えなかった色部家を再興し、合戦でも数々の功名をたて勢力を広げていった。

弘治3年(1557)、武田軍が北信濃に侵攻し葛山城を攻略しようとした際、勝長は謙信より救援の出陣を求められたともいわれるが、勝長が兵を出したかは不明で、のち葛山城は武田軍の手に落ちてしまう。

永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、謙信に従い先陣の柿崎景家を援護し、武田方の赤備えと恐れられていた飯富虎昌の隊を敗走させたともいう。合戦後には謙信から「血染めの感状※」を授かった。

永禄11年(1568)本庄繁長(ほんじょうしげなが)が武田方に内通し謙信に反旗を翻すと、勝長はその制圧に乗り出し、繁長の本庄城を包囲する。しかし翌12年(1569)繁長は夜襲をかけ、両軍激戦となって勝長は討ち死にしてしまう。独立心が強い揚北衆の中にあって、最後まで忠節を尽くした勝長の死を謙信はたいそう惜しんだという。家督は子の顕長[あきなが・兄]、続いて長実[ながざね・弟]が継ぎ、謙信景勝の二代にわたり、忠勤に励んだという。

※「血染めの感状」……感状は配下の武将に合戦の武功を讃えて授ける書状。「血染め」と呼ばれるのは、合戦で死傷した一族や郎党らの死(血)の代償という意味によるという。